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堪忍袋

平成七年、初夏。


月初めの朝。


第一工場では、歯車事業部の月次朝礼が始まろうとしていた。


現場社員、検査員、パート従業員。


百人近い社員が静かに整列する。


前へ立ったのは、製造本部長・習志野毅だった。


工場内には重い空気が漂っていた。


「おはようございます。」


誰も笑わない。


「受注状況は依然として厳しいままです。」


「減速機、歯車ともに回復の兆しはありません。」


習志野は一呼吸置いた。


「会社として、更なる固定費削減を検討しています。」


ざわつく現場。


パート従業員たちの顔が曇る。


「まだ決定ではありません。」


「しかし、追加の人員整理も視野に入れております。」


その瞬間。


誰も言葉を発しなかった。


朝礼は静かに終わった。




社員たちが持ち場へ散っていく。


その中、一人だけ動かない男がいた。


寺田幸生だった。


「……習志野。」


低い声が工場に響く。


習志野が振り返る。


「寺ちゃん。」


寺田は真っ直ぐ歩み寄った。


「いい加減にしとけよ。」


周囲の社員が足を止める。


トシも丹羽も顔を見合わせた。


嫌な予感がした。


寺田は拳を握り締める。


「何人辞めさせたら気が済むんだ。」


「パートのおばちゃんら、毎日ビクビクしとるぞ。」


習志野は静かに答えた。


「会社を守るためだ。」


寺田は首を振る。


「会社、会社って……。」


「柳田も毎日真っ青な顔して、パートさんらを宥めとったぞ。」


「あいつ、夜も眠れん顔しとった。」


「とうとう自分から異動願まで出したやないか。」


工場が静まり返る。


習志野は寺田の目を見た。


「寺ちゃん。」


「柳田を苦しめた。」


「それは事実や。」


「言い訳はせん。」


一拍置く。


「でもな。」


「整理通知の書類に印鑑押しとるんは、柳田やない。」


「俺と、多々良部長や。」


寺田は黙って聞いている。


「柳田より。」


「俺らが悪者になった方が会社は守れる。」


「そう決断した。」


習志野は静かに続けた。


「多々良さんも。」


「きっと同じこと考えとる。」


寺田は一歩踏み出した。


「お前な。」


「パートのおばちゃん達だけやない。」


「柳田の人生まで無茶苦茶にしといて。」


「何が本部長様や。」


「笑わせるな。」


張り詰めた空気。


習志野は反論しなかった。


寺田は怒りのまま叫んだ。


「……だから嫁さんに二回も三回も逃げられるんや!」


その瞬間。


「寺ちゃん!」


丹羽が飛び出した。


「それはアカン!」


「それは関係ない!」


トシも寺田の腕を掴む。


「寺ちゃん!言い過ぎや!」


寺田は息を荒げたまま習志野を睨み続けた。


長い沈黙。


やがて大きく息を吐く。


「……悪い。」


習志野は顔を上げた。


「嫁さんのことは関係ないな。」


「ちょっと言い過ぎた。」


習志野は静かに頷いた。


「いい。」


「構わんよ。」


寺田は腕を組み直した。


「だけど。」


「俺が言いたいことは変わらん。」


「俺は納得しとらん。」


踵を返す。


「まぁええわ。」


「お前に言うても始まらん。」


トシが慌てて叫ぶ。


「寺ちゃん!」


「どこ行くんや!」


寺田は振り返らない。


「専務や。」


丹羽が驚く。


「征広専務ですか?」


「ああ。」


「征広さんとは仲ええんや。」


「昔からな。」


「橋本本部長と揉めた時も、俺が正しい言うてくれた。」


「ちゃんと話聞いてくれる人や。」


寺田は管理棟へ向かって歩き出した。


「俺は我慢ならん。」


「征広専務に直談判したる。」


工場中の視線を背中に受けながら、寺田は歩いていく。


習志野はその背中を見送った。


止めようとはしなかった。


寺田なら、きっと征広にも同じ言葉をぶつける。


それでもいい。


現場の怒りを受け止めるのも、自分たち管理職の仕事だと、習志野は覚悟していた。



管理棟二階。


専務室。


コンコン。


「どうぞ。」


扉が開く。


作業服姿の寺田幸生が立っていた。


征広は顔を上げる。


「寺田さん。」


「珍しいですね。」


寺田は帽子を脱ぎ、一礼した。


「専務さん。」


「話があります。」


征広はソファを指さした。


「座って。」


「いや、立ったままでええです。」


その声の硬さで、征広はただ事ではないと悟った。


「朝礼のことかな。」


寺田は黙って頷いた。


征広は黙って聞く。


寺田は続けた。


「俺、送迎バスやっとったでしょう。」


「毎日あのおばちゃんら乗せとったんです。」


「子供が熱出した。」


「親が倒れた。」


「孫が生まれた。」


「そんな話、毎日聞いとった。」


「その人らが今、泣きながら辞めていく。」


寺田の声が震えた。


「見とれんのですわ。」


征広は静かに答えた。


「私だって見とれんよ。」


寺田は首を振る。


「なら何で止めんのです。」


「専務でしょう。」


「社長にも言える立場でしょう。」


征広は窓の外へ目を向けた。


第一工場の屋根が見える。


「寺田さん。」


「私も毎日のように社長とぶつかってるし。」


「重雄さんとも。」


「習志野とも。」


「毎日だよ。」


寺田は黙る。


「でもね。」


「今の泉町は。」


「誰が正しくて。」


「誰が悪い。」


そんな話やない。」


征広は寺田を見つめた。


「会社が潰れたら。」


「社員も。」


「パートさんも。」


「取引先も。」


「みんな路頭に迷う。」


「だから。」


「私らは残す方を選んだ。」


寺田は拳を握る。


「分かってますよ。」


「分かってますけど……。」


「悔しいんです。」


征広はゆっくり立ち上がった。


寺田の前まで歩いてくる。


「寺田さん。」


「ありがとう。」


「え?」


「今日、ここへ来てくれて。」


寺田は戸惑った。


征広は笑った。


「現場が何も言わん会社は終わりです。」


「怒る人がいる。」


「泣く人がいる。」


「それだけ泉町を大事に思ってくれてる。」


「私はそう思ってます。」


寺田の目が少し潤んだ。



征広の表情が変わる。


「約束する。」


「今は我慢してください。」


「このまま終わらせません。」


「必ず仕事を増やします。」


「必ず会社を立て直します。」


「もう一度。」


「笑って働ける会社に戻してみせます。」


寺田は征広の目を見つめた。


嘘をついている目ではなかった。


昔、橋本本部長と揉めた時も。


正しい判断をしてくれた目だった。


寺田はゆっくり頭を下げた。


「……分かりました。」


「専務、いや、征広さん。」


「信じます。」


征広も深く頷いた。


「ありがとう。」


寺田は帽子を被り直した。


扉へ向かう。


「寺田さん、一つだけ。」


征広が呼び止めた。


「はい。」


「習志野。」


「彼も苦しんでます。」


「今度会ったら。」


「一杯飲みにでも誘ってやってください。」


寺田は苦笑した。


「しゃあないな。」


「習志野が嫌じゃなかったら、連れて行きますわ。」


征広も笑った。


「頼みます。」


寺田が部屋を出る。



静かになった専務室。


征広は窓から工場を見下ろした。


「……仕事を増やす。」


「何としても。」


その視線は、営業部のある建屋へ向いていた。


そこでは営業本部長の北沢弘が、新しい市場の資料を机いっぱいに広げていた。


泉町精工の反撃は、静かに始まろうとしていた。

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