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苦悩

平成六年 秋


社長室。


窓の外では、工場の煙突から白い蒸気が静かに立ち上っていた。


信成は机に肘をつき、征広と総務部長・多々良重雄を見つめた。


「……内山工業の社員だ。」


「何とか受け入れられんか。」


征広は黙ったまま資料を差し出した。


信成はページをめくる。


受注。


稼働率。


人件費。


どの数字を見ても答えは一つだった。


それでも信成は諦めなかった。


「泉町熱処理の夜勤ならどうだ。」


多々良が静かに首を振る。


「夜勤も現在は残業で対応しております。」


「五人でもいい。」


「……。」


「三人でもいい。」


征広がゆっくり口を開いた。


「だめです。」


その一言は、社長室の空気を凍らせた。


「社長。」


「今、パート従業員の整理を進めている会社が、新たに人を雇えば、説明がつきません。入れたら士気は確実に落ちるでしょう。」


「内山さんには約束した。」


信成の声が震えた。


「社員は俺が守るって。」


征広は兄を真っ直ぐ見つめた。


「泉町の社員を守るのも、社長の約束です。」


長い沈黙。


やがて多々良が静かに口を開いた。


「……苦渋の決断です。」


信成は椅子にもたれた。


力が抜けたようだった。


「……そうか。」


その一言だけだった。




しばらくして、信成は顔を上げた。


「福井。福井を呼んでくれ。」


「はい、社長。」


総務部課長補佐、福井明人が入室する。


「内山工業の社長、……内山義雄さんの居場所を調べてくれ。」


「なるべく早く。」


「すぐに出られるか。」


福井は表情一つ変えなかった。


「差し支えありません。」


深く一礼すると、静かに部屋を出ていった。




翌日午前。


福井は一冊の茶封筒を持って社長室へ入る。


「社長。」


「社長、お待たせしました。」


信成は立ち上がる。


「分かったか。」


「はい。」


福井は簡潔に報告を始める。


「工場とご自宅は、すでに競売手続きが進んでおります。」


「銀行口座も事実上凍結状態です。」


「現在は刈谷市にお住まいの長女、服部麻紀様のお宅で、ご夫婦とも生活されております。」


一枚の住宅地図を机に広げる。


「こちらです。」


信成は地図を見つめた。


「今から行っても大丈夫か。」


福井は手帳を閉じる。


「差し支えありません。」


「娘様にも確認しております。」


「本日午後でしたら、ご在宅とのことです。」


「福井、ありがとう。」


福井は一礼する。




信成は玄関前に停められた濃紺のボルボへ乗り込んだ。


エンジンをかける。


しかし、しばらく発進できなかった。


ハンドルを握る手に力が入らない。


やがて静かにアクセルを踏み込み、車は刈谷へ向かった。



服部家。


インターホンが鳴る。


玄関を開けた女性が、少し驚いた表情を見せた。


「伊東さん……。」


「突然申し訳ありません。」


「内山さんに、お会いできますか。」


奥から聞き慣れた声がした。


「麻紀、誰や。」


ゆっくり姿を現した内山義雄は、内山工業で話した時より穏やかな表情にも見えた。


「信ちゃんか。」


信成は深く頭を下げた。


「内山さん。」


「本当に申し訳ありません。」


「実は……。」


「社員さんを引き受ける約束……守れません。」


頭は下げたまま動かなかった。


長い沈黙。


やがて内山が笑った。


「そうか。」


「泉町も大変なんやろうな。」


信成は何も言えない。


「ありがとうな、信ちゃん。」


「謝りに来てくれただけで十分や。」


内山は穏やかに続けた。


「倉持や、大出や、新家にも頼んでみるわ。」


「何人かでも雇ってもらえたら、それでええ。」


信成は拳を握り締めた。


「本当に……すみません。」


内山は照れくさそうに笑った。


「それとな。」


「昔、白ブタ言うて、ごめんな。」


信成は顔を上げた。


「あの頃は悔しかったんや。」


「信ちゃんの言うことは正しい。」


「分かっとった。」


「せやけど、言い返せんかった。」


「悪態ついてもうた。」


「勘弁してくれな。」


信成は首を横に振った。


「そんなこと……。」


内山は少し遠くを見るように笑った。


「一番伊東ちゃんに似とったんは、信ちゃんやったわ。」


「社員を守ろうとするところも。」


「意地っ張りなところも。」


「全部や。」


信成の目から、一筋の涙がこぼれた。


内山はその肩を軽く叩いた。


「また笑える日が来る。」


「信ちゃん、あんたなら大丈夫や。」


信成は何も言えなかった。


ただ、何度も何度も頭を下げた。




帰り道。


夕日に照らされた濃紺のボルボが、国道を静かに走る。


赤信号で止まる。


信成はハンドルに手を置いたまま、フロントガラスの向こうを見つめていた。


約束は守れなかった。


内山工業の社員を救えなかった。


それでも、社長として前を向かなければならない。


信号が青に変わる。


信成はアクセルを踏み込んだ。


泉町精工へ向かうその背中は、以前より少しだけ小さく見えた。

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