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袋小路

平成六年、初夏。


社長室の明かりは、午前二時を過ぎても消えなかった。


机の上に広げられているのは、売上予測でも資金繰り表でもない。


泉町精工全従業員の名簿だった。


信成は電卓を叩きながら、何度も数字を打ち直していた。


売上高五百十億円。


あの絶頂期から、今や二百七十億円。


数字だけを見れば答えは簡単だった。


人件費を削るしかない。


しかし、名簿には数字ではなく、一人ひとりの顔が浮かんでいた。


「……こんなことをするために、会社を大きくしたんじゃない。」


信成は名簿を閉じ、両手で顔を覆った。




翌朝。


歯車事業部。


習志野毅は三人のリーダーを会議室へ集めた。


柳田仁。


都築敏夫。


丹羽博久。


三人とも現場を知り尽くしたリーダーであり、パート従業員からも信頼されていた。


習志野は立ったまま言った。


「会社は改革を断行する。」


誰も口を開かない。


「パート従業員を整理する。」


空気が凍った。


しばらく沈黙が流れた後、習志野は柳田を見た。


「柳田。」


「はい。」


「多々良総務部長から辞令が出る。今日付けで係長だ。」


柳田は一瞬目を見開いた。


「現場を任せる。」


「……承知しました。」


「都築。」


「はい。」


「丹羽。」


「はい。」


「二人で柳田を支えてやってくれ。」


「分かりました。」




翌日の午後。


総務部から全体説明を終えた後、対象者との個別面談が始まった。


柳田は深く頭を下げる。


「皆さん。」


「先ほど、多々良総務部長から説明があったように、退職手続きや失業保険の申請、再就職のご相談につきましては、会社が責任を持って対応いたします。」


「……ですが。」


「本当に申し訳ありません。」


柳田は再び頭を深く下げる。


面談室は静まり返っていた。



最初に口を開いたのは、勤続十五年の女性だった。


「柳田さん。」


「私、辞めなあかんの?」


「……はい。」


「私がよう休むから?」


柳田は首を振る。


女性は続けた。


「子どもが小さい頃は、熱出したら迎えに行かなあかんかった。」


「学校から電話来たら休まなあかんかった。」


「それがあかんかったん?」


柳田は唇を噛んだ。


「違います……。」


しかし、その先の言葉が出てこない。




次の女性が座る。


「私は辞めてもええ。」


そう言ったあと、表情を変えた。


「でもな。」


「○○さんが残るんは納得できへん。」


「仕事、私の方ができる。」


「何で私なん?」


「柳田さん、ちゃんと見とった?」


柳田は何も答えられなかった。


自分たちが賞与や昇給のために付けてきた評価。


それが今、人を辞めさせる基準になっていた。




面談は夕方まで続いた。


泣きながら部屋を出る者。


笑顔を作って去る者。


怒りをぶつける者。


柳田はそのたびに立ち上がり、頭を下げ続けた。




日が暮れた。


柳田は一人、会議室で評価表を見つめていた。


そこへトシが缶コーヒーを二本持って入ってきた。


「仁。」


「少し休め。」


柳田は笑おうとした。


しかし笑えなかった。


遅れて丹羽も入ってくる。


やなちゃん、今日、飯食ったか?」


「……食欲ない。」


トシは柳田の顔を見つめた。


「仁。」


「一人で抱え込むな。」


柳田は静かに答えた。


「俺、係長になったんだし。」


「俺がやるしかない。」


部屋を出たあと、トシは小さな声で言った。


「丹羽。」


「仁、大丈夫だろうか……。」


「長いこと、野球部でも一緒にやってきたが、あんな顔初めて見た。」


丹羽は腕を組んだ。


「野球辞めてから、仕事、ずっと真っすぐ走ってきたんだけど。」


「真面目すぎるんだ。」


トシは閉まったドアを見つめた。


「俺らで支えんとな……。」


丹羽は小さく頷く。


「……ああ。」


「このままじゃ、柳ちゃんが壊れる。」


二人は無言のまま、会議室の扉を見つめ続けていた。


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