崩落
平成六年、春。
バブル崩壊から三年。
日本経済は、長い不況の入り口に立っていた。
株価は下がり続け、地価は暴落した。
金融機関は融資姿勢を一変させ、新規融資を抑え、既存融資にも厳しい条件を突き付けるようになった。
追加担保を求められ、それに応じられない企業は資金繰りに窮した。
中には債権をノンバンクへ譲渡される企業も現れ、中小企業経営者たちは「貸し渋り」という言葉に怯える日々を送っていた。
その波は、日本中の町工場へ容赦なく押し寄せていた。
朝八時。
総務部長・多々良重雄の電話が鳴る。
受話器を置いた重雄の表情は青ざめていた。
そのまま社長室へ向かう。
「社長……。」
信成は顔を上げた。
「内山工業さんが、不渡りを出されました。」
その一言だけだった。
信成は立ち上がる。
「……車を回せ。」
征広も静かに席を立った。
内山工業。
工場のシャッターは半分閉まり、機械は一台も動いていなかった。
あれほど賑やかだった工場に、音はない。
事務所で二人を迎えたのは、内山義雄だった。
少し前に会った時よりかなり老け込んだように見えた。
「信ちゃん。」
いつもの笑顔だった。
しかし、その笑顔が信成の胸を締めつけた。
「内山さん……。」
義雄はゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「本業だけは、最後まで黒字やった。」
静かに語り始める。
「社員を守ろう思うてな。」
「本業で得た利益を元に、マンション経営を始めた。」
「景気が悪なっても、家賃収入があれば社員を守れると思うた。」
苦笑した。
「……甘かった。」
窓の外に建つマンションを見つめる。
「地価は下がる。」
「家賃も下がる。」
「空室も増える。」
「銀行は追加担保を持ってこい言う。」
義雄は静かに指を折る。
「マンション。」
「会社の土地と建物。」
「工場の機械。」
「自宅。」
「持っとった株も全部売った。」
そして、小さく笑った。
「それでも借金が三億五千万残った。」
信成は言葉を失った。
やがて信成が口を開く。
「内山さん。」
「泉町精工が支えます。」
「私個人でも構いません。」
「私の持株を売れば、三億や四億は何とかできます。」
征広と重雄が息をのんだ。
創業以来。
信成は泉町精工の株を一株も売ったことがなかった。
その信成が、自ら株を手放そうとしていた。
義雄はゆっくり首を振る。
「信ちゃん。」
「ここであんたに甘える俺だと思うかい。」
静かな声だった。
「俺は負けた。」
「それは認める。」
「だがな。」
義雄は工場の奥を見つめた。
「本当に勝手なお願いだけどな」
「社員だけ頼む。」
「家族を抱えとる。」
「俺はそれだけが心残りや。」
信成は深く頭を下げた。
「……分かりました。」
「必ず。」
義雄は満足そうに笑った。
「ありがとう。」
帰りの車内。
誰一人、口を開かなかった。
信成は窓の外を見つめている。
征広も、重雄も、その横顔を見ることしかできなかった。
夕方。
社長室へ戻ると、一通の封書が届いていた。
差出人。
クラウザー株式会社 購買本部。
征広が封を切る。
表題。
『グローバル調達方式への転換のお知らせ』
本文には、冷たい文字が並んでいた。
「平成六年十月より、泉町精工発注分の約三〇パーセントを、蔵宇座工業(大連)有限公司より調達いたします。」
部屋が静まり返る。
重雄が資料を見ながら言う。
「平成元年の売上五百十億円から、現在は四百億円を切っています。」
「この三〇パーセント移管が始まれば……。」
信成は静かに尋ねた。
「最終的に、いくらになる。」
重雄はゆっくり答えた。
「試算では……二百七十億円前後です。」
その数字が部屋に重く落ちた。
五百十億円。
二百七十億円。
半分近い売上が消える。
信成はゆっくり椅子にもたれた。
天井を見上げる。
そして、小さく呟いた。
「……ここまで、来たか。」
その声には、かつての絶対的な自信はなかった。
窓の外では、第二工場の煙突から白い蒸気だけが静かに立ち上っていた。
泉町精工は今、創業以来最大の繁栄を終え、本当の試練の時代へ足を踏み入れようとしていた。




