暗雲
平成三年、春。
新社長・伊東信成が誕生して一年。
泉町精工は、表向きには順調そのものだった。
第二工場はフル稼働。
ギヤードモーター「Powered by IZUMIMACHI」は、全国で着実にシェアを伸ばしていた。
しかし、その足元では、小さな異変が積み重なり始めていた。
本社三階。
社長室。
総務部長・多々良重雄が数枚の資料を机に並べた。
「社長、本日の株価です。」
信成は資料を手に取る。
そこには、泉町精工の株価推移が記されていた。
平成二年九月。
東京証券取引所第二部上場期待もあり、株価は上場来最高値を記録した。
しかし、その後は下落を続けている。
「……どこまで下がった。」
重雄は静かに答えた。
「現在、最高値から約四〇パーセント安です。」
信成は目を細めた。
「利益は過去最高。」
「財務も健全。」
「それでも売られるのか。」
重雄は頷く。
「市場は先を見ています。」
「日本銀行の公定歩合引き上げ以降、機械株全体が弱含みです。」
信成は窓の外を見つめた。
納得はできなかった。
続いて、もう一枚の資料が差し出される。
「こちらは地価です。」
旧本社跡地。
平成元年九月。
坪二百五万円。
平成三年春。
坪百三十万円。
さらに下落が続けば、百万円を割り込むとの予測だった。
信成はゆっくり資料を閉じる。
「土地は一坪も売っていない。」
「それなのに、価値だけが消えていくのか……。」
重雄は静かに頷いた。
「やはり、バブルが崩れ始めています。」
その日の午後。
営業部。
北沢営業課長が一枚の封筒を手に、専務・征広の部屋へ飛び込んだ。
「専務。」
「タキヤからです。」
征広は封筒を受け取り、文書を広げた。
『グローバル調達方式への転換のお知らせ』
読み進めるにつれ、表情が曇る。
弊社では、台湾現地子会社の稼働に伴い、国際競争力強化を目的としてグローバル調達方式へ順次移行いたします。
これに伴い、貴社ご納入の平歯車量産品の一部につきましては、台湾現地調達へ切り替えさせていただきます。
対象品番につきましては別紙をご参照ください。
征広は別紙を見た。
そこには、長年納入してきた量産歯車の品番が並んでいた。
「打ち切りは何点だ。」
「七品番です。」
北沢が答える。
「年間では約十億円。」
征広は黙った。
金額以上に重い知らせだった。
「始まりましたね。」
北沢が静かに言う。
「これが前例になります。」
征広はゆっくり立ち上がった。
「社長に報告する。」
社長室。
信成は文書を最後まで読み終えた。
長い沈黙。
「台湾か……。」
征広は答える。
「現地子会社で組立を始めるようです。」
「量産品は価格競争になります。」
「今後、他社も追随する可能性があります。」
信成は机に文書を置いた。
「特殊歯車は簡単には真似できん。」
「だが……。」
言葉が続かなかった。
征広も何も言わない。
部屋には時計の音だけが響いていた。
その夜。
重雄は一人、決算資料を見つめていた。
売上は、まだ高い。
利益も出ている。
しかし。
株価は下がる。
地価も下がる。
そして、取引先は海外調達へ動き始めた。
重雄は静かにつぶやく。
「何かが変わった……。」
窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。
泉町精工はまだ誰も知らない。
この雨が、長く厳しい平成不況の始まりであることを。




