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新社長

平成二年六月。


梅雨の晴れ間。


泉町精工本社には、朝から緊張した空気が流れていた。


この日は定時株主総会。


創業以来、最も重要な総会と言っても過言ではなかった。


創業者・伊東隆亡き後、初めて迎える株主総会。


会場には株主をはじめ、取引銀行、村野証券、主要取引先の代表らが顔を揃えていた。


壇上中央には、社長・伊東隆則。


その右には副社長・伊東信成。


左には専務取締役・征広、小橋伸夫、多々良重雄ら役員が並ぶ。


隆則は静かに立ち上がった。


「本日はご多忙の中、ご出席いただきありがとうございます。」


議事は滞りなく進んだ。


決算承認。


監査報告。


質疑応答。


すべての議案が承認された後、最後の役員改選に移る。


隆則はゆっくりと株主を見渡した。


「私、伊東隆則は、本総会をもちまして代表取締役社長を退任し、代表取締役会長に就任いたします。」


場内は静まり返る。


「後任の代表取締役社長には、副社長・伊東信成を推薦いたします。」


拍手が起こった。


議長が諮る。


「ご異議ございませんか。」


反対の声は一つもなかった。


「満場一致により承認されました。」


その瞬間、会場は大きな拍手に包まれた。


信成は静かに立ち上がり、深く一礼した。



続いて、新役員体制が発表された。


代表取締役会長 伊東隆則。


代表取締役社長 伊東信成。


専務取締役 伊東征広。


常務取締役 小橋伸夫。


総務部長 多々良重雄。


議長が続ける。


「なお、伊東征広氏を副社長とする案も検討されましたが、ご本人より辞退の申し出がございました。」


会場がざわめく。


征広は立ち上がった。


「営業は現場が命です。」


「私は専務として、営業の最前線に立ち続けます。」


「肩書より、お客様の声を聞くことを選びました。」


再び拍手が響いた。


信成は弟へ小さく頷いた。





総会終了後。


本社大会議室で新社長就任式が開かれた。


社員たちが整然と並ぶ。


第一工場。


第二工場。


全国の営業所。


この日のために、多くの社員が集まっていた。


最前列には、着物姿の悦子が座っている。


丈山市一の資産家として知られた実家に育った彼女は、凛とした佇ままで夫を見つめていた。


その隣では、大学生となった長男・信裕も、少し照れくさそうに拍手を送っていた。


一方、総務部の列には、この春入社した長女・裕美の姿があった。


新入社員らしく背筋を伸ばし、周囲の先輩社員とともに演壇を見つめている。



隆則は演壇に立った。



「本日より、泉町精工は新しい時代へ入ります。」


「創業者・伊東隆の意思を受け継ぎ、新社長には伊東信成が就任いたします。」


会場は割れんばかりの拍手に包まれた。


信成は演壇へ歩み出る。


深く一礼し、社員一人ひとりの顔を見渡した。


そして、ゆっくりと口を開く。


「本日、代表取締役社長を拝命いたしました。」


「伊東信成です。」


静まり返る会場。


「泉町精工は、小さな町工場から始まりました。」


「創業者・伊東隆をはじめ、多くの先輩方が積み重ねてきた努力が、今日の泉町精工を築きました。」


「私は、その歴史をさらに前へ進めます。」


力強く言葉を続ける。


「私たちの次なる目標は――。」


一呼吸置いた。


「東京証券取引所第二部への上場です。」


「そして、日本一の減速機メーカーではなく、世界に通用する減速機メーカーを目指します。」


社員たちは総立ちとなり、大きな拍手を送った。


裕美は目を潤ませながら拍手を続ける。


悦子は静かに微笑み、夫の晴れやかな姿を見つめていた。


信裕も、誇らしげに父を見上げていた。


信成の胸には、自信しかなかった。


会社は伸びている。


社員はついてきている。


夢は、必ず実現できる。





その日の夕方。


総務部長・多々良重雄は、証券会社から送られてきた株価一覧を眺めていた。


売上高五百十億円。


過去最高益。


新社長就任。


材料としては申し分ない。


それなのに、泉町精工の株価は伸びない。


いや、ここ数週間は、わずかながら下落を続けていた。


重雄は首をかしげる。


「おかしい……。」


そこへ村野証券の担当者から電話が入る。


「市場全体が重いですね。」


「日本銀行の公定歩合引き上げで、資金が株式市場から引き始めています。」


電話を切った重雄は、窓の外を見つめた。


街にはまだ、バブル景気の熱気があふれている。


しかし、市場だけは、その熱気とは違う景色を見始めていた。


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