絶頂期
平成二年、春。
あの「泉町会議」から一年が過ぎた。
泉町精工は、かつてない勢いで成長を続けていた。
第一工場。
第二工場。
ホブ盤の切削音が絶え間なく響く。
熱処理炉は赤く燃え、研削盤では歯車が鏡のような歯面へと仕上げられていく。
組立工場では「Powered by IZUMIMACHI」の銘板が取り付けられたギヤードモーターが、次々と出荷されていた。
受注残は八か月分。
休日出勤が続いても、生産は追いつかない。
まさに、バブル景気の絶頂だった。
本社二階、役員会議室。
総務部長・多々良重雄が決算資料を読み上げる。
「売上高、五百十億円。」
一瞬、静寂が流れた。
「営業利益、五十八億円。」
「経常利益、五十六億円。」
「いずれも創業以来最高を更新しました。」
第二工場稼働率、九十八パーセント。
自己資本比率もさらに改善。
銀行団からは追加融資の申し出が相次ぎ、証券会社からは東京証券取引所第二部上場への最終手続きが順調に進んでいるとの報告が届いていた。
重雄は資料を閉じた。
「以上です。」
社長・伊東隆則は静かに信成を見た。
「信成。」
「一年前、お前は言ったな。」
『誰も反対できない数字を残します。』
信成は黙って頷く。
隆則は小さく笑った。
「……文句なしだ。」
「約束通りだ。」
会議室が静まり返る。
隆則が多々良重雄を見る。
「重雄、次の株主総会に向けて準備を進めてくれ。」
征広は静かに微笑んだ。
「一年前の約束ですね。」
隆則は頷いた。
「会社は次の時代へ進む。」
「頼んだぞ、信成。」
信成は立ち上がり、深く頭を下げた。
四月。
泉町精工に新しい風が吹いた。
新入社員の中に、一人の女性がいた。
伊東裕美。
信成の長女である。
同立社女子大学を卒業し、この春、総務部へ入社した。
辞令交付式。
裕美は少し緊張した表情で挨拶する。
「本日よりお世話になります、伊東裕美です。まだ未熟ですが、一日も早く会社のお役に立てるよう努力いたします。よろしくお願いいたします。」
温かい拍手が響く。
隆則は目を細めた。
「伊東家も三代目の時代だな。」
社員たちは笑顔で迎えた。
信成は父としてではなく、一人の経営者として娘を見つめた。
「特別扱いはするな。」
総務部長へ、それだけを告げた。
裕美は静かに頷いた。
数日後。
営業部。
北沢営業課長が業界紙を手に征広の席へやって来た。
「専務、お時間よろしいでしょうか。」
征広は業界紙を受け取る。
見出しには、大きく書かれていた。
『クラウザー、大連に現地法人「蔵宇座工業(大連)有限公司」設立』
「中国か……。」
征広が呟く。
北沢は真剣な表情だった。
「販売会社だけならいいんですが……。」
「私は、生産拠点を造るつもりではないかと思っています。」
「歯車まで現地生産されるようになれば、日本のメーカーは価格で勝てません。」
征広は記事を折り畳んだ。
「副社長に話そう。」
副社長室。
信成は決算資料に目を通していた。
コンコン。
「失礼します。」
征広が業界紙を手に入ってくる。
「副社長、少し気になる記事があります。」
信成は顔を上げた。
征広は業務紙を机に広げる。
『クラウザー、大連に現地法人「蔵宇座工業有限公司」設立』
「営業の北沢が気にしていました。」
「販売会社だけならいいんですが、生産まで考えているのではないかと。」
信成は記事を一読し、新聞を机に置いた。
「余計な心配だ。」
征広は黙っている。
信成は椅子にもたれた。
「歯車はそんなに甘い世界じゃない。」
「素材、熱処理、研削。」
「何十年も積み重ねた技術だ。」
「中国へ工場を造ったくらいで追いつけるものではない。」
征広は小さく頷いた。
「……分かりました。」
新聞を持って部屋を出る。
廊下を歩きながら、もう一度見出しを見る。
『蔵宇座工業有限公司 大連設立』
胸の奥に、言葉にできない違和感だけが残った。
その頃。
第二工場では今日も機械が止まることなく動き続けていた。
泉町精工は、創業以来最大の繁栄を迎えていた。
誰もがこの繁栄が続いていくと信じていた。




