愛知制覇
平成元年、夏。
全国社会人軟式野球大会愛知県予選。
泉町精工野球部は快進撃を続けていた。
大卒ルーキー本格左腕・芝直樹。
高卒ルーキー右横手投げ・瀬戸誠。
石川満監督が見出した二人のエースは、相手打線を寄せ付けなかった。
芝が完封すれば、翌日は瀬戸が完投。
瀬戸が完封すれば、次は芝が零封。
社員たちは口を揃えた。
「どっちがエースなんだ。」
石川は笑う。
「二人ともエースだ。」
ある日の試合後。
ベンチで芝がタオルを首に掛けながら笑った。
「一点も取られなきゃ負けませんから。」
瀬戸はスポーツドリンクを飲みながら苦笑する。
「芝さんは気楽でいいですよ。」
「俺は一点じゃ勝てる気がしません。」
「打線がもう少し点を取ってくれないと。」
芝は肩をすくめた。
「一点あれば十分や。」
瀬戸は首を振る。
「俺には無理です。」
そのやり取りを聞いていた正捕手・都築敏夫、通称トシが笑った。
「お前ら、性格まで正反対やな。」
加地淳も笑いながら口を挟む。
「芝さんは天才。」
「瀬戸は秀才。」
「でも二人とも勝つ。」
石川は腕を組み、静かに頷いた。
「それでいい。」
「勝つ方法は一つじゃない。」
「勝てりゃええ。」
その言葉通り、泉町精工は勝ち続けた。
準々決勝。
芝、九回完封。
準決勝。
瀬戸、九回一失点完投。
そして迎えた愛知県予選決勝。
相手は全国大会常連。
大林記録紙。
スタンドは立ち見が出るほど埋まり、社員や家族、取引先まで応援に駆け付けていた。
石川は芝へボールを渡す。
「先発、芝。」
芝は軽く笑った。
「今日も一点もやりません。」
トシが苦笑する。
「頼もしい奴だ。」
試合開始。
芝の球は初回から唸った。
ズバァン!
伸びのあるストレート。
高めから鋭く落ちるカーブ。
打者はタイミングすら合わない。
「ストライク!」
「バッターアウト!」
三者凡退。
二回。
三回。
四回。
芝は一人の走者も許さない。
大林記録紙ベンチ。
監督は腕を組んだまま、静かにマウンドを見つめていた。
「監督……。」
打撃コーチが小声で言う。
「全く合いません。」
「ストレートもカーブも見分けがつきません。」
監督は苦笑した。
「チャンスらしいチャンスもない。」
「これが……。」
芝が五回の最後の打者を空振り三振に仕留める。
乾いた捕球音が球場へ響いた。
監督はゆっくり帽子のつばを押し上げた。
「これが、左の東崎と言われた男か。」
ベンチには重苦しい空気が漂っていた。
「社会人、それも軟式に、こんな左腕がおるとはな……。」
一方、泉町打線も大林記録紙の好投手を攻略できず、試合はゼロ行進が続く。
均衡が破れたのは七回裏だった。
先頭の加地淳。
初球。
ボテボテの三塁線。
「よっしゃ!」
全力疾走。
「セーフ!」
加地は一塁ベース上で笑った。
「ヒットはヒットっす。」
スタンドから笑いが起こる。
続く打者がきっちり送りバントを決める。
さらに内野ゴロの間に加地は三塁へ到達した。
一死三塁。
打席にはトシ。
石川は腕を組み、小さく頷く。
「最低限でいい。」
トシは静かにバットを構えた。
大林記録紙バッテリーが警戒する。
「スクイズか。」
捕手が前へ出る。
その動きを見たトシは、静かにバットを引いた。
初球。
外角高め。
見送る。
二球目。
真ん中低め。
カキーン――。
打球はセンターへ高々と舞い上がった。
センターが捕球する。
「タッチアップ!」
加地が一気に本塁へ駆け込む。
「セーフ!」
泉町精工、待望の先制点。
一対〇。
ベンチが沸き上がる。
トシはベンチへ戻ると、芝に笑った。
「約束の一点や。」
芝も笑顔で頷く。
「十分です。」
「一点も取られなきゃ勝ちですから。」
その言葉通り、八回表。
芝は先頭打者を内野フライに打ち取り、一死。
あと五つ。
誰もがそう思った。
しかし、異変が起きる。
四球。
続く打者にも四球。
トシは首を傾げた。
(芝らしくない……。)
四番打者がタイムをかける。
足元に転がったボールを拾い上げ、審判へ見せた。
「審判。」
「ボールに血が付いてます。」
球場がどよめいた。
審判がボールを見つめる。
白球には赤い血が滲んでいた。
トシは芝の右手を掴む。
「見せろ。」
中指の豆が大きく裂けていた。
血が止まらない。
石川はゆっくりマウンドへ歩く。
芝は悔しそうに言った。
「監督。」
「まだ投げられます。」
石川は首を横に振る。
「十分だ。」
「七回と三分の一。」
「一点もやらなかった。」
「お前の仕事は終わった。」
そしてベンチへ向かって叫ぶ。
「瀬戸!」
十九歳のルーキーが立ち上がる。
大林記録紙ベンチがざわついた。
「投手交代か。」
監督は静かに瀬戸を見つめる。
「気を付けろ。」
「芝だけじゃない。」
「もう一枚おる。」
瀬戸はマウンドへ上がる。
一死一、二塁。
一点差。
トシが外角へミットを構えた。
初球。
力が入った。
シュッ――。
ボールは大きく外れた。
トシが横っ飛びで止める。
「大丈夫だ。」
「いつものお前で来い。」
瀬戸は深呼吸した。
二球目。
インコース。
シンカー。
ブンッ!
空振り。
「ストライク!」
三球目。
再びシンカー。
かろうじてバットに当てる。
ボテボテの三塁ゴロ。
三塁手は二塁へ送球。
フォースアウト。
遊撃手は素早く一塁へ。
「セーフ!」
ダブルプレーは惜しくも完成しない。
二死一、三塁。
瀬戸は小さく舌打ちした。
気を取り直しマウンドに立つも、三塁走者を何度も見てしまう瀬戸。
その時だった。
センターから大きな声が飛ぶ。
「おーい! 瀬戸!」
加地だった。
「バッタ集中!バッタ集中」
「ランナー見るな!」
瀬戸が顔を上げる。
加地は満面の笑みで叫ぶ。
「撃たれたらバッタ食わすぞー!」
球場が一瞬静まり返る。
瀬戸は思わず吹き出した。
「……加地さん。」
「バッカじゃねえの。」
肩の力が抜けた。
トシがミットを叩く。
「来い。」
初球。
シンカー。
空振り。
二球目。
シンカー。
ファウル。
追い込んだ。
瀬戸は頷く。
最後は首を振った。
トシも頷き返す。
三球目。
外角低めいっぱい。
渾身のストレート。
ズバァーン!
「ストライク!」
見逃し三振。
大歓声が球場を包んだ。
九回表。
瀬戸の投球はさらに冴え渡る。
二塁ゴロ。
見逃し三振。
そして最後の打者。
シンカー。
シンカー。
最後は内角いっぱいのストレート。
ブンッ!
「ストライク!」
空振り三振。
「ゲームセット!」
泉町精工 一対〇 大林記録紙。
愛知県大会優勝。
全国大会出場。
歓喜の輪がグラウンドに広がる。
大林記録紙ベンチ。
監督は帽子を脱ぎ、相手チームの二人の投手を見つめた。
「完敗だ。」
コーチが悔しそうに呟く。
「左の東崎だけじゃありませんでした。」
監督は静かに頷いた。
「ああ。」
「芝だけでも全国で通用する。」
「だが。」
「最後に出てきた瀬戸。」
「十九歳とは思えん。」
「一級品の球を放りやがる。」
監督は泉町ベンチへ視線を送る。
「あれでは、一人を攻略しても、もう一人が出てくる。」
「全国でも、簡単には負けんぞ。」
監督は小さく笑った。
「泉町精工……恐るべし。」
大林記録紙の選手たちは静かに泉町ナインへ拍手を送った。
その頃、芝は瀬戸の肩を叩いていた。
「一点も取られんかったやろ。」
瀬戸は照れくさそうに笑う。
「芝さんのおかげです。」
芝は首を横に振った。
「違う。」
「二人で勝った試合や。」
その時だった。
加地がニヤニヤしながら芝へ歩み寄る。
「芝さん。」
「約束、忘れてませんよね。」
「ん?」
「帝国ハムの東崎のサイン。」
「いつ持ってきてくれるんすか?」
一瞬静まり返り、ベンチ中が吹き出した。
芝は苦笑いする。
「お前、まだ言うとるんか。」
「約束は約束っす。」
加地は腕を組み、わざと疑うような顔をする。
「芝さん……。なんか怪しいんだよなぁ。」
「本当は東崎と知り合いじゃないんじゃねぇの?」
芝は間髪入れず叫んだ。
「馬鹿野郎!」
ベンチが大爆笑。
芝は笑いながら続ける。
「俺は高校も大学も二つ下の後輩や!」
「知っとるに決まっとるやろ!」
加地はニヤリ。
「じゃあ安心っす。」
「全国行く前にもらっといてください。」
芝は頭をかきながら笑う。
「しゃあない。」
「頼んどいたるわ。」
トシが肩を震わせる。
「加地、お前ホンマに遠慮ないな。」
石川も珍しく笑った。
「勝った日は、それくらいでええ。」




