泉町会議
平成元年夏
創業者・伊東隆の社葬から一週間が過ぎた。
第一工場。
第二工場。
機械の音は今日も鳴り続ける。
熱処理炉は赤く燃え、減速機組立ラインは止まることなく動いていた。
社員たちは持ち場で黙々と働いている。
創業者が亡くなっても。
会社は止まらない。
止めてはならない。
それが伊東隆という男が残した教えだった。
しかし。
本社二階、役員会議室だけは、張り詰めた空気に包まれていた。
会議室の一番奥。
かつて隆が座っていた席だけが空いている。
誰もその席には座らなかった。
出席者は五人。
社長・伊東隆則。
専務取締役・伊東信成。
常務取締役・伊東征広。
常務取締役・小橋伸夫。
総務部長・多々良重雄。
重雄が静かに口を開く。
「本日の議題は二つです。」
「今後の経営体制。」
「そして、東京証券取引所第二部上場への是非。」
資料が配られる。
売上高 三百九十五億円。
営業利益、経常利益とも過去最高。
第二工場は稼働率九十五パーセント。
自己資本比率も上場時を大きく上回っていた。
信成が資料を閉じた。
「数字は申し分ありません。」
「私は、東京証券取引所第二部への準備を始めるべきだと考えます。」
隆則は静かに聞いていた。
信成は続ける。
「減速機事業は想定以上に伸びました。」
「歯車事業も、減速機との相乗効果で二百十億円。」
「田村機械製作所。」
「ダイハチ電機。」
「タキヤ。」
「クラウザー。」
「Yamana発動機。」
「サンダーディーゼル。」
「減速機から歯車受注へ。」
「私が描いた構想は、すべて現実になっています。」
部屋が静まり返る。
「今こそ攻めるべきです。」
「東京へ行けば信用力はさらに増します。」
「海外市場も視野に入ります。」
「今しかありません。」
隆則は腕を組み、ゆっくり口を開いた。
「信成。」
「私は東京へ行くことに反対している訳ではない。」
「だが。」
「景気が良すぎる。」
信成が眉をひそめる。
「第二工場は完成したばかりだ。」
「利益率も過去最高。」
「今は財務体質をさらに強くしたい。」
「内部留保を積み上げる。」
「無理をする時期ではない。」
信成は首を横に振った。
「兄さん。」
「その考えでは遅い。」
「景気が良い時だから設備投資をする。」
「景気が良い時だから東京へ行く。」
「景気が悪くなってからでは何もできません。」
小橋が腕を組んだ。
「俺は社長に賛成だ。」
「工場は急には育たん。」
「人も育たん。」
「今の利益率を維持する方が先だ。」
信成は即座に返す。
「利益率を維持して満足する会社なら、泉町精工はここまで来ていません。」
会議室の空気が張り詰める。
重雄は資料を閉じた。
「銀行筋も、現状維持を望む声が多くあります。」
「株主も、安定配当を評価しています。」
信成は小さく息を吐いた。
「株主は。」
「利益を出す会社を評価します。」
「数字は嘘をつきません。」
「東京証券取引所へ上場する。」
「そのために、さらに利益を伸ばす。」
「私は、その道しか見えていません。」
隆則は首を横に振る。
「私は会社を守る責任がある。」
「だから焦らん。」
再び沈黙。
やがて信成はゆっくり立ち上がった。
会議室を見渡す。
「……これでは。」
「意見はまとまりませんね。」
全員が信成を見る。
「でしたら。」
「私が社長になるしかありません。」
空気が凍りついた。
信成は続ける。
「私の考えで会社を経営します。」
「結果が出なければ、その責任はすべて私が負います。」
誰も口を開かなかった。
再び沈黙。
その時だった。
今まで黙っていた征広が、ゆっくり口を開いた。
「社長、専務。」
二人が同時に征広を見る。
「私は、お二人とも正しいと思います。」
会議室の視線が一斉に征広へ集まった。
征広は静かに資料を閉じた。
「専務のおっしゃる通りです。」
「今は攻めるべき時です。」
「第二工場は想定以上に稼働しています。」
「Powered by IZUMIMACHIも、市場の評価を受け始めました。」
「今なら東京証券取引所第二部への挑戦も十分可能でしょう。」
信成は黙って頷いた。
征広は続ける。
「ですが。」
「社長のおっしゃることも正しい。」
「景気が良すぎます。」
「営業をしていると、それを肌で感じます。」
「今は何を提案しても売れる。」
「だからこそ怖い。」
小橋が静かに頷いた。
「征広。」
「続けろ。」
「攻めながら守る。」
「私は、それしかないと思っています。」
会議室が静まり返る。
「一つ、提案があります。」
征広は二人を見た。
「専務。」
「一年間、副社長として実質的に会社を率いてください。」
信成が顔を上げる。
「その一年で。」
「今、おっしゃった経営が正しいことを数字で証明してください。」
「その結果を見て。」
「社長へ就任する。」
「私は、それが一番会社のためになると思います。」
重雄が深く頷いた。
「社内も納得するでしょう。」
小橋も腕を組んだまま口を開く。
「俺も賛成だ。」
「一年あれば結果は出る。」
会議室は再び静かになった。
隆則は弟たちを見回した。
やがて小さく笑う。
「征広。」
「いい案だ。」
征広は頭を下げた。
「ありがとうございます。」
隆則は信成へ向き直る。
「どうだ。」
信成はしばらく考え込んだ。
やがて静かに立ち上がる。
「分かりました。」
「一年。」
「その一年で。」
「誰も反対できない結果を出します。」
その目には迷いはなかった。
「売上。」
「利益。」
「企業価値。」
「すべて、もう一段上へ引き上げます。」
「その時は。」
「社長を私に任せていただきたい。」
隆則は静かに頷いた。
「約束しよう。」
「結果を出したら。」
「私から株主総会へ提案する。」
そして一呼吸置いた。
「ただし。」
会議室の空気が変わる。
「私にも条件がある。」
全員が隆則を見た。
「征広。」
「はい。」
「今日から、お前は専務だ。」
征広は思わず目を見開く。
「社長……。」
「営業をまとめる人間が必要だ。」
「信成一人では会社は動かん。」
「私が会長になる時。」
「社長は信成。」
「専務はお前。」
「この二人で泉町精工を引っ張っていってほしい。」
征広はしばらく言葉が出なかった。
やがて深く頭を下げる。
「謹んで、お受けいたします。」
信成は征広を見た。
しかし、何も言わない。
ただ一言だけ。
「営業は任せます。」
それだけだった。
征広は小さく微笑み、
「承知しました。」
とだけ答えた。
そのやり取りを見ていた小橋は苦笑する。
「相変わらず不器用な兄弟だな。」
重雄も思わず笑みを漏らした。
会議室の空気が少しだけ和らぐ。
最後に信成が全員を見渡した。
「一年後。」
「誰も反対できない数字を残します。」
「その時、私は社長になります。」
誰も反対しなかった。
こうして、創業者亡き後の「泉町会議」は幕を閉じた。
誰も、この時はまだ知らない。
この決断が泉町精工を史上最大の繁栄へ導くことを。
そして、その繁栄の先に、バブル崩壊に伴う平成不況という未曽有の試練が待っていることを。




