托生
平成元年初夏。
泉町精工は創業以来、最大の黄金期を迎えていた。
第二工場は昼夜を問わずフル稼働。
歯車事業部売上二百十億円。
減速機事業部売上百八十五億円。
那古野証券取引所第二部でも有数の優良企業となり、株価も過去最高値を更新していた。
その朝だった。
総務部長・多々良重雄の机の電話が鳴る。
受話器を取った重雄の表情が、一瞬で曇った。
「……はい。」
「分かりました。」
静かに受話器を置くと、足早に社長室へ向かった。
「社長。」
隆則が顔を上げる。
「どうした。」
重雄は息を整えた。
「会長が……。」
「容態が急変されました。」
「先生から、すぐ病院へ来ていただきたいと。」
部屋の空気が止まる。
信成。
征広。
小橋。
誰も一言も発せず立ち上がった。
病院。
病室には富士子が付き添っていた。
酸素マスクを付けた隆は、静かに眠るように横たわっている。
医師が深く頭を下げた。
「意識はありません。」
「脈もかなり弱くなっています。」
誰も言葉を失った。
医師は静かに続ける。
「ですが、人は最後まで耳は聞こえていると言われています。」
「伝えたいことがありましたら、どうぞ話しかけてあげてください。」
そう言い残し、病室を後にした。
重苦しい静寂。
富士子は隆の手をそっと包み込んだ。
「あなた……。」
震える声だった。
「もう頑張らなくていいですよ。」
涙をぬぐっても、また頬を伝う。
「本当によく働きましたね。」
「朝は誰より早く会社へ行って。」
「夜は誰より遅く帰ってきて。」
「休みの日まで仕事のことばかり。」
少し笑う。
「寂しいと思ったこともありました。」
「でも。」
首を横に振った。
「あなたが守っていたのは会社だけじゃありませんでした。」
「社員さんと、そのご家族。」
「そして私たち家族でした。」
涙が止まらない。
「私は後から伊東家へ来た人間でした。」
「正直、不安でした。」
「本当のお母さんではない私を、みんなが受け入れてくれるだろうかって。」
声が詰まる。
「でも、あなたはいつも私の味方でした。」
「だから私は、一度も一人ぼっちだと思ったことはありませんでした。」
三兄弟へ目を向ける。
「隆則さんも。」
「信成さんも。」
「征広も。」
「みんな立派になりました。」
「あなたが信じて育てた子どもたちです。」
再び隆を見つめる。
「あなた。」
「私は、あなたの妻になれて幸せでした。」
「苦労もたくさんありました。」
「でも、不幸だと思った日は、一日もありませんでした。」
「あなたと歩いた人生は、私の宝物です。」
「ありがとう。」
「本当に……ありがとうございました。」
病室には富士子の嗚咽だけが響いた。
やがて信成がゆっくりと父の枕元へ歩いた。
震える手で隆の手を握る。
「お父さん……。」
返事はない。
「第二工場。」
「喜んでくれましたね。」
「橋本さんも。」
「石川も。」
「社員みんなが胸を張って働いています。」
涙が溢れる。
「減速機も売れています。」
「歯車も売れています。」
「お父さんが旋盤一台から始めた会社は。」
「こんなに大きくなりました。」
唇を噛み締める。
「でも。」
「私はまだ恩返しができていません。」
「東京証券取引所へ上場して。」
「日本一の会社にする。」
「それを、お父さんに見てもらいたかった。」
涙が止まらない。
「お父さん。」
「お願いです。」
「目を開けてください。」
「一言だけでいい。」
「叱ってください。」
「褒めてくれなくてもいい。」
「だから……。」
「まだ逝かないでください。」
とうとう信成は父の手を握ったまま崩れ落ちた。
肩を震わせ、子どものように泣き続ける。
普段、決して涙を見せない男だった。
征広は何も言わず、兄の肩へ静かに手を置いた。
その温もりだけで十分だった。
隆則は静かに目を閉じ、大きく息を吸う。
そして富士子の隣へ歩み寄り、そっと肩を抱いた。
「母さん。」
富士子が涙で濡れた顔を上げる。
「お父さんは幸せだった。」
「だから。」
「みんなで笑って送りましょう。」
富士子は何度も頷いた。
その時だった。
隆の胸が小さく上下した。
ゆっくりと目を開けることはなかった。
だが、握られた信成の手を、ほんのわずかに握り返したような気がした。
病室にいた誰も、そのことには気付かなかった。
窓から差し込む西日が病室を赤く染めていた。
隆の呼吸は、静かに、ゆっくりと弱くなっていく。
富士子は最後まで手を握り続けた。
隆則は背筋を伸ばしたまま父を見つめている。
信成はうつむいたまま、父の手を離さない。
征広は三人を静かに見守っていた。
やがて。
穏やかな表情のまま静かに息を引き取った。
病室に長い沈黙が流れる。
医師が時計を見て告げた。
「ご臨終です。」
富士子は隆の胸に顔を伏せ、声を殺して泣いた。
信成は立ち上がろうとして膝から崩れ落ちる。
隆則は目を閉じ、一礼した。
征広も静かに頭を下げた。
享年七十七。
泉町精工創業者。
伊東隆。
その生涯を閉じた。
数日後。
泉町精工社葬。
全国から取引先、協力会社、金融機関、泉会会員が集まった。
祭壇中央には穏やかに笑う隆の遺影。
その横には、創業間もない頃、油にまみれ旋盤の前に立つ若き日の写真が飾られていた。
花で埋め尽くされた祭壇を前に、多々良正がゆっくり演台へ向かった。
退職して久しいが、その背筋は昔と変わらず真っ直ぐだった。
深く一礼する。
「会長。」
一言だけで声が震えた。
「四十年間、本当にお世話になりました。」
「旋盤一台。プレス機一台。」
「社員四人。」
「あの日から始まった会社が、こんな立派な会社になりました。」
祭壇を見つめる。
「社長は、いつも社員のことばかりでした。」
「『正、飯は食ったか。』」
「『家族は元気か。』」
「『無理をするな。』」
「叱られたことは数え切れません。」
会場に小さな笑いが起こる。
「でも。」
「一度も、人として見下されたことはありませんでした。」
涙が頬を伝う。
「私は番頭でした。」
「ですが。」
「回長は、いつも私を仲間として扱ってくださいました。」
声を詰まらせながら続ける。
「私は。」
「幸せな番頭でした。」
「会長。」
「本当に、本当にありがとうございました。」
深く頭を下げる。
会場のあちこちですすり泣きが聞こえた。
しばらくして、葬儀委員長である泉会初代会長・内山義雄が演台へ立つ。
祭壇を見つめ、少し笑った。
「皆さんは。」
「伊東社長と言います。」
「でも。」
「わしらは違います。」
「伊東ちゃんです。」
会場から小さな笑みがこぼれる。
「伊東ちゃん。」
「とうとう行ってまったな。」
「向こうには東那古野鉄工所の近藤進がおる。」
「ネジ屋の進だわ。」
「久しぶりに進に会うんや。」
「昔みたいに酒でも飲め。」
少し間を置く。
「でもな。」
「喧嘩ばっかりするなよ。」
「進と仲良くやれ。」
内山は涙を拭った。
「こっちは心配するな。」
「泉町精工も。」
「泉会も。」
「みんなで守る。」
「伊東ちゃんが育てた子どもたちもおる。」
「立派になった。」
「安心して休め。」
深く一礼する。
「じゃあな。」
「伊東ちゃん。」
会場は静まり返っていた。
誰も拍手はしなかった。
その代わり、一人、また一人と祭壇へ向かい、静かに頭を下げていく。
伊東隆は、多くの人に見送られ旅立った。
旋盤一台から始まった夢は終わらない。
その志は、家族へ。
社員へ。
仲間へ。
そして、泉町精工という会社へ。
確かに托されたのであった。




