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昭和六十三年春。
第二工場が稼働を始め、泉町精工はかつてない勢いを見せていた。
だが、営業担当常務・伊東征広は満足していなかった。
減速機は売れている。
だが、それだけでは駄目だった。
もっと先を見ていた。
もっと大きな勝負を。
そのきっかけは、何気ない会話だった。
第二工場。
減速機開発室。
橋本登減速機事業部本部長が試作品を眺めている。
小橋伸夫常務取締役が後ろから覗き込んだ。
「トニー。」
「まだやっとるのか。」
橋本が笑う。
減速機ケースの内側。
小さな文字が刻まれていた。
Design by N.Hashimoto
小橋は呆れたように首を振る。
「トニー、もうやめんか。」
「トニーの製品じゃない。」
「泉町精工の製品だ。」
橋本は苦笑した。
「設計者の意地やね。」
「分かっとる。」
小橋も笑った。
「だがな。」
「会社の名前の方が大事だ。」
「お前が定年になっても会社は残る。」
橋本は少し黙った。
やがて静かに頷く。
「かもしれんけど、私が会社にいるうちは続けるよ。」
そのやり取りを、部屋の前を通りかかった征広が聞いていた。
足が止まる。
会社の名前。
その言葉が頭に残った。
数秒後。
征広は小さく笑った。
「そうか。」
「それだ。」
数日後。
営業会議。
社長の隆則。
専務の信成。
橋本。
小橋。
北沢課長。
営業部幹部が集まっていた。
征広は黒板へ向かった。
大きく書く。
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会議室が静まり返る。
信成が眉をひそめた。
「何だ、それは。」
征広は振り返る。
「田村機械製作所です。」
全員の視線が集まる。
田村機械製作所。
搬送装置メーカー最大手の一角。
三友重機械工業の減速機を長年採用している大口顧客。
征広は続けた。
「田村さん向けに専用減速機を開発します。」
橋本が驚く。
「は?専用設計?開発費は?」
征広は即答した。
「いただきません。」
部屋がざわつく。
「試作品も無償です。」
「価格もほぼ既存品のまま。」
今度は営業部まで驚いた。
信成が腕を組む。
「利益はどうする。」
征広は黒板を指差した。
「その代わりです。」
「カタログ。」
「展示会。」
「本体銘板。」
「すべてに。」
黒板を叩く。
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「これを入れていただきます。」
誰も口を開かなかった。
信成がようやく言う。
「広告か。」
征広は首を振った。
「違います。」
「ブランドです。」
「減速機を売るんじゃありません。」
「泉町精工を売るんです。」
橋本が征広を見る。
信成も見る。
隆則だけが笑った。
「面白い。」
征広は続ける。
「三友さんと正面から殴り合う必要はありません。」
「田村さんの機械が売れれば。」
「泉町精工も売れる。」
「それが勝ち方です。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて隆則が口を開く。
「やれ。」
「責任は私が持つ。」
征広が頭を下げた。
「ありがとうございます。」
田村機械製作所。
開発部。
購買部。
技術部。
何度も打ち合わせが続いた。
橋本率いる開発陣も全力だった。
ハイレシオハイポイドギア。
高効率。
低騒音。
小型化。
田村機械製作所の要求は厳しかった。
しかし橋本は笑った。
「フフフッ、難しいから面白い。」
試作品完成。
耐久試験。
騒音試験。
温度試験。
すべてクリア。
数か月後。
正式採用が決まった。
田村機械製作所購買部長が握手を求める。
「泉町さん。」
「良い仕事でした。」
橋本が頭を下げる。
その横で北沢が小さく拳を握った。
半年以上通い続けた結果だった。
1ヶ月後。
田村機械製作所が新製品を発表した。
最新搬送装置。
カタログの片隅には小さく書かれている。
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泉町精工も同時にプレスリリースを発表した。
翌日。
営業部の電話が鳴り始める。
「資料を送ってください。」
「展示会で見ました。」
「見積りをお願いしたい。」
電話は止まらなかった。
営業部員が叫ぶ。
「課長!」
「また問い合わせです!」
北沢が苦笑する。
「今日だけで何件目だ。」
その時。
一本の電話が入った。
北沢が受話器を取る。
「はい。」
表情が変わった。
「ありがとうございます。」
受話器を置く。
征広を見る。
「ダイハチ電機です。」
征広が頷く。
「そうか。」
「来たか。」
北沢は笑った。
ずっと種を蒔き続けた相手だった。
ようやく芽が出た。
平成元年七月
那古野国際展示会。
田村機械製作所ブースは人で溢れていた。
最新搬送装置。
その横には、
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の文字。
少し離れた場所で。
隆則。
征広。
北沢。
三人が様子を見ていた。
そこへ数人の外国人技術者が現れる。
胸には、
MITSUTOMO HEAVY INDUSTRIES U.S.A.
三友重機械工業USA。
技術開発チーフのマイケル・ロバーツは仕様書を手に取った。
数秒。
無言。
ページをめくる。
さらにめくる。
突然、目を見開いた。
「Impossible…(ありえない…)」
同行していた日本法人技術者が尋ねる。
「どうしました。」
ロバーツは仕様書を指差した。
「This size…(このサイズ)」
「This torque…(このトルク)」
「This efficiency…(この効率)」
さらに図面を見る。
そして呟いた。
「High-ratio…(ハイレシオ)」
「Hypoid gear…(ハイポイドギア)」
沈黙。
やがて。
「Oh my God…」
周囲の技術者たちが集まる。
ロバーツは資料から目を離さない。
「Our Encoloid Reducer…(我が社のエンコロイド減速機と)」
「Evenly matched…(互角…)」
首を横に振る。
「No… Maybe better…(いや、それ以上だ)」
ロバーツは静かに笑った。
「The engineer at Izumimachi is crazy… (泉町の設計者はクレイジーだ…)」
一拍置く。
「But brilliant. (だが、天才だ)」
その言葉を聞いていたのは。
隆則。
征広。
北沢。
三人だけだった。
北沢が興奮を抑えきれない。
「常務!」
征広は静かに微笑む。
「これでいい。」
隆則も頷いた。
「製品が営業してくれる時代になったな。」
「橋本さんには言うな。」
北沢が驚く。
「えっ?」
隆則は笑った。
「褒めると調子に乗るから。」
征広も思わず吹き出した。
「間違いありません。」
三人は笑った。
展示会場の照明を浴びながら、
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の文字が静かに輝いていた。
泉町精工は今、
町工場からブランドへ変わろうとしていた。




