韋駄天ヤンキー
昭和六十一年春。
泉町精工野球部のグラウンドは、いつもよりざわついていた。
新入部員紹介の日だった。
石川満監督が静かに言った。
「加地淳。今日からよろしく。」
現れたのは、坊主頭を伸ばしてリーゼントっぽくしたような髪型。
眉の下が剃り上がり、青くなっている。
身長百六十三センチ。
制服のボタンは外され、ポケットに手を突っ込んだまま周囲を睨むように歩いてくる。
柳田仁が眉をひそめた。
「何だよ、こいつ。」
加地は柳田を見ることもなく鼻で笑った。
「うるせぇよ。」
「俺は俺だから。」
柳田の顔色が変わる。
「口の利き方を知らんのか!」
今にも飛び掛かりそうになる。
しかし石川が静かに片手を上げた。
「柳田。」
「いい。」
「まずはどれぐらいの選手か見よまい。」
柳田は納得できなかった。
部員たちも同じだった。
石川はボールを軽く放り上げる。
「淳。」
「トスやってみろ。」
「いいぜ。」
普通ならセンター返し。
しかし加地は違った。
コン。
三遊間へ転がす。
次。
コン。
一二塁間。
さらに。
三塁線ギリギリ。
一塁線ギリギリ。
思った場所へ、思ったように打球が転がっていく。
柳田が思わず声を漏らした。
「……マジかよ。」
トシも目を丸くする。
「全部狙ってる……。」
「全部狙った場所だ。」
加地は退屈そうに言った。
「もうちょい高く。」
石川は少し高くトスを上げる。
今度はバントだった。
加地はフェンスを的にしてバットを構えた。
コツ。
ネット右端。
コツ。
また同じ場所。
コツ。
また同じ場所。
コツ。
また同じ場所。
寸分狂わず、何球打っても同じ場所へ吸い込まれていく。
グラウンドが静まり返った。
柳田が呆然と呟く。
「バントまで……飛ばすコースだけじゃなく強さまで、完璧にコントロールしてんのか。」
トシも小さく頷く。
「監督はトスの強さ変えてるのに。」
「こんなバットコントロールは初めて見た。」
石川だけが小さく笑っていた。
「やっぱり本物だ。」
柳田は加地のバットを見つめたまま呟いた。
「あいつ……ボールじゃねぇ。」
「打球を操っとる。」
半年前。
昭和六十年夏。
全国高校野球岐阜県大会決勝。
県立稲葉商業対中商高校。
一番・中堅・加地淳。
相手投手は後にドラフト一位となる豪腕右腕白川だった。
初回。
セーフティーバント。
内野安打。
スタート。
二盗。
さらに三盗。
スクイズで生還。
三回。
右前打。
また二盗。
五回。
内野が前へ詰める。
加地はニヤリと笑った。
初球。
バスター。
打球は二遊間の頭を越え、センター前へ抜けた。
三安打。
二盗塁。
加地がバッターボックスに入ると相手ベンチは完全に混乱していた。
「前だ!」
「下がれ!」
「バント警戒!」
「いや、バスターだ!」
監督が帽子を叩きつける。
「一人で野球を壊しやがる……。」
試合終了後。
バックネット裏。
石川満は静かに待っていた。
県立稲葉商業の監督――豊臣自動車時代の先輩が、疲れた顔で歩いてきた。
「石。」
「久しぶりだな。」
石川は頭を下げる。
「先輩。」
「今日の試合、お疲れ様でした。」
監督は苦笑した。
「今年はあと一歩だった。白川は甲子園でもそう打たれんから、中商は上までいくわな。」
「白川より、加地の方が魅力ありますよ」
「石、本気か。」
「あいつはヤンキーだぞ。」
「俺も手を焼いとる。」
「監督にも噛み付く。」
「先生にも噛み付く。」
「先輩にも噛み付く。」
「一年の時なんか、しごきやイジメに耐えきれず先輩を殴って停学だ。」
石川は迷わなかった。
「知ってます。」
「それでも欲しいです。」
監督は首を傾げた。
「野球センスはある。」
「身体能力も半端じゃない。」
「高校総体で決勝まで行った陸上部の子と100メートルは互角だった。」
「ベース一周なら加地が3メートル離して勝つだろう。」
「でもな、人間性に大いに問題がある。」
石川は静かに答えた。
「それでも欲しいです。」
監督は石川を見つめた。
「なんでだ。」
石川はグラウンドを見つめたまま言った。
「あいつ、人の見てない所で走ってます。」
監督の表情が変わる。
「気付いたか。」
石川は頷いた。
「努力を絶対に見せない。」
「そこがいい。」
「伸びます。」
少し間を置いて続けた。
「技術は教えられます。」
「でも、自分から走る人間だけは育てられません。」
「そこは、生まれ持ったものです。」
監督は笑った。
「お前は昔から変わらんな。」
「問題児ばっか拾う。」
石川も小さく笑う。
「問題児じゃありません。」
「まだ磨かれていないだけです。」
昭和六十一年春。
練習後。
誰もいないグラウンド。
加地が一人で走っていた。
全力ダッシュ。
またダッシュ。
またダッシュ。
石川が静かに近づく。
「淳。」
「何だよ、おっさん。」
「今日も最後まで残っとったな。」
「知るか。」
「たまたま、外野でダッシュしとっただけか?」
「見てんじゃねぇよ。」
石川は笑う。
「努力は隠したいか。」
加地は少し黙った。
「……頑張ってるって思われるの、ダセぇし。」
「才能だけって思われたい。」
石川は静かに頷く。
「若いな。」
加地が睨む。
「若くて悪いか。」
「悪くない。」
石川はグラウンドを見渡した。
「本当に強い選手ほど、人の見てない所で走る。」
加地は黙った。
石川は帰ろうとする。
その背中へ、加地が小さく声をかけた。
「……おっさん。」
石川が振り返る。
加地は照れ臭そうに、それでも真剣な目で言った。
「俺……加地だからよ、ずっと勝ちたいんよ。勝って勝ちまくって、日本一になれるかな。」
石川は一切迷わなかった。
「なれる。」
「ただし。」
「一人じゃ無理だ。」
「みんなで勝て。」
加地は照れ臭そうに笑う。
「説教くせぇ。」
石川も笑った。
「監督だからな。」
夕陽がグラウンドを赤く染めていた。
石川は加地の背中を見つめ、小さく笑った。
「面白くなってきた。」
加地は振り返らず右手を上げる。
「任せろ、おっさん。」
その背中を見送りながら、柳田がぽつりと呟いた。
「……あいつ。」
「とんでもない選手になるぞ。」
誰も、その言葉に異論はなかった。
その日。
泉町精工野球部に、一人の韋駄天が加わった。




