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上場の日

昭和六十年七月。


午前八時。


那古野証券取引所。


玄関前には白い立看板が置かれていた。


『泉町精工株式会社 那古野証券取引所第二部 新規上場』


取締役会長・伊東隆。


代表取締役社長・伊東隆則。


専務取締役・伊東信成。


常務取締役・伊東征広。


一行を迎えたのは、村野証券公開引受部次長・仁科康之だった。


「皆様、おはようございます。」


「本日は誠におめでとうございます。」


信成は深く頭を下げた。


「仁科さん。」


「ここまで、本当にありがとうございました。」


仁科は穏やかに笑った。


「礼なら、今日が終わってからにしてください。」


「市場は甘くありません。」


「今日から毎日が本当の評価です。」


信成も笑みを返した。


「望むところです。」


式典は厳粛に進んだ。


記念盾の贈呈。


祝辞。


記念撮影。


そして、打鐘。


隆則が木槌を握る。


一瞬だけ、父・隆を見る。


隆は静かに頷いた。


「社長。」


「鳴らせ。」


隆則は大きく木槌を振り下ろした。


――カーン。


澄み切った鐘の音が取引所に響き渡る。


創業四十年。


その音は、町工場から歩んできた泉町精工の歴史そのものだった。


仁科は静かに拍手を送った。


(ここまで来ましたか……。)


初めて工場を訪れた日のことを思い出す。


油にまみれた現場。


歯車に人生を懸ける職人たち。


専務・伊東信成の鋭い眼差し。


この会社なら必ず上場できる。


そう信じ続けてきた。



その頃。


丈山工場。


総務部では多々良重雄が短波ラジオのアンテナを伸ばしていた。


雑音混じりの市況放送が流れ始める。


多々良は構内放送へ切り替えた。


『……本日の新規上場銘柄……』


工場中のスピーカーから短波放送が流れる。


ホブ盤。


シェービング盤。


組立ライン。


社員たちは仕事を続けながら耳を傾けた。


『……那古野証券取引所第二部……』


『泉町精工株式会社……』


誰も言葉を発しない。


『現在、買い気配……』


雑音が混じる。


組立課。


羽山智はレンチを握る手を止めた。


開発部。


三尾義勝は製図板から顔を上げる。


品質保証部。


石川満は試験データを閉じた。


歯車事業部。


習志野毅と井出敏正は天井のスピーカーを見つめていた。




橋本登だけは違った。


新型減速機の図面に赤鉛筆を走らせている。


小橋伸夫が笑いながら近寄った。


「トニー。」


「何だ、ミスター小橋。」


「今日は会社が上場した日だぞ。」


橋本は図面から目を離さない。


「知っとる。」


「株価なんか気にならんのか。」


橋本は静かに答えた。


「株価じゃ歯車は削れんよ。」


小橋は笑った。


「トニーらしいぜ。」


橋本も少しだけ笑う。


「でも。」


「設備投資はしやすくなる。」


「もっといい機械が買える。」


「もっといい減速機が作れる。」


小橋は頷いた。


「結局、お前はそこへ行き着く。」


「それが技術屋だ。」




短波ラジオから声が響く。


『……泉町精工……』


『初値……』


全員が耳を澄ませた。


『公開価格を上回る価格で初値を付けました。』


総務部。


多々良重雄は静かにマイクを取る。


「総務部よりお知らせします。」


工場が静まり返る。


「ただいま、泉町精工株式は公開価格を上回る初値で取引が開始されました。」


一瞬の静寂。


そして自然と拍手が広がる。


誰も大騒ぎはしない。


誰も仕事を放り出さない。


その拍手には、誇りだけが込められていた。


ホブ盤が再び回り始める。


組立ラインが動き出す。


品質保証部は検査を再開する。


橋本は図面を閉じることなく呟いた。


「仕事だ。」


小橋は頷いた。


「ああ。」


「今日から株主の会社だ。」


「だからこそ、昨日より良い歯車を作らなきゃならん。」


工場には再び機械の音が響き渡った。


泉町精工は、この日から新たな歴史を刻み始めた。


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