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トニーの流儀

昭和六十年春。


泉町精工は、上場準備の最終段階に入っていた。


工場では監査法人の視察。


村野証券による最終確認。


品質保証部では資料の山。


専務取締役となった伊東信成、総務部長・多々良重雄は毎日残業続きだった。


一方、丈山工場では全く違う戦いが始まっていた。


減速機事業部本部長・橋本登が、一枚の図面を机に広げた。


「次はこれ。」


図面を覗き込んだ三尾義勝が息を呑む。


「……新しいハイポイドギア。」


橋本は頷いた。


「直交軸減速機。」


「ウォームは終わり。」


「これからはハイポイド。」


羽山智が顔をしかめた。


「橋本さん……。」


「また難しいこと言い出しましたね。」


橋本は平然としていた。


「難しいからやるんよな。」


「簡単なら、うちじゃなくてもできちゃうでしょうが。」


数日後。


三尾は大村商会へ足を運び、海外メーカー・グリムゾンにも問い合わせてもらった。


翌日。


重い足取りで橋本の前へ立つ。


「橋本さん……。」


「グリムゾンの回答です。」


橋本は図面から目を離さない。


「で?」


「ハイポイドギアの量産は難しいそうです。」


「専用設備も特殊で、日本ではまだ実績も少ないと。」


「正直……うちでは厳しいかと……。」


橋本はゆっくり顔を上げた。


「You。」


事務所が静まり返る。


「なんで逃げる?」


三尾は言葉を失う。


橋本は静かに続けた。


「ミスター石川に聞いたか?」


「……まだです。」


「聞いてないのに無理って決めたの?」


橋本は立ち上がった。


「大村商会が難しい言うた。」


「グリムゾンも難しい言うた。」


「三尾ちゃん、Youはそれで終わり?」


図面を三尾へ返す。


「うちは泉町精工だ。」


「難しいからやらん会社じゃない。」


「難しいからやる会社だ。」


橋本は内線を取った。


「ミスター石川。」


品質保証部長・石川満がやって来る。


「呼びましたか。」


橋本は図面を差し出した。


「品質から見てどうだ。」


石川は黙って図面を眺める。


そして内線を取った。


「井出君、図面を流すんで工具室と相談した結果も含めて来てくれ。」


十分後。


歯車事業部傘歯車課長・井出敏正が現れた。


石川が尋ねる。


「井出、どうだ。」


井出は図面を見ながら答えた。


「工具室に聞いてきました。」


「かなり特殊な形状の専用工具が必要になります。」


「工具交換の頻度も、今のスパイラルベベルよりかなり高くなります。」


三尾が思わず聞く。


「やっぱり無理ですか?」


井出は首を横に振った。


「かなり難航します。」


「ですが、可能な範囲だと判断できます。」


橋本がニヤリと笑う。


「ほら。」


井出は続けた。


「あと、私の情報で恐縮なんですが……。」


「グリムゾンでは六軸フルNCのベベルギア歯切盤を開発中だそうです。」


「数年後には実用化されると聞いております。」


橋本は腕を組んだ。


「数年後か。」


井出は頷く。


「ですが、今は人間の腕でやるしかありません。」


橋本は笑った。


「それでいい。」


「機械が会社を育てるんじゃない。」


「人間が機械を育てる。」


その日から設計変更は何度も繰り返された。


三尾は図面を書き直し続けた。


橋本は何度も突き返した。


「まだ甘い。」


「ここも。」


「全部。」


羽山は試作品を組み立てては分解した。


歯当たり。


バックラッシュ。


軸受予圧。


何十回やり直したか、誰も数えていなかった。


深夜。


ようやく完成した試作一号機。


運転スイッチが押される。


静かだった。


ウォーム減速機とは違う。


滑るように回る。


石川が測定器を見つめる。


「温度良好。」


「振動値良好。」


「騒音規格内。」


橋本は減速機へ耳を近づけた。


長い沈黙。


やがて小さく呟く。


「……これだ。」


三尾が恐る恐る聞いた。


「橋本さん……。」


「どうでしょう。」


橋本は短く答えた。


「設計。」


「素晴らしい。」


三尾は固まった。


橋本は続けた。


「You! グレートだ。」


その一言だけだった。


今まで散々クソミソに言われ続けた三尾には、それだけで十分だった。


橋本は羽山を見る。


「組立。」


「ミスター羽山、よく食らいついた。」


羽山は笑った。


「何回バラしたか覚えてません。」


「覚えとらんぐらいでいい。」


橋本は珍しく笑顔を見せた。




数週間後。


春の人事が発表された。


三尾義勝 開発部設計課長。


羽山智 減速機事業部組立課長。


社内はどよめいた。


「二人とも係長補佐だったのに。」


「一気に課長か。」


その夜。


小橋伸夫が橋本に聞いた。


「お前の推薦だろ。」


橋本は缶コーヒーを飲みながら答えた。


「そう。」


「リトル多々良がブツブツ言ってきた。」


「『係長補佐から一足飛びは前例がありません』だと。」


小橋は吹き出した。


「言いそうだ。」


橋本は肩をすくめた。


「だから私が押し通した。」


「責任は私が持つ、とね。」


しばらく沈黙が流れる。


橋本は缶コーヒーを一口飲み、小橋を見た。


「良い人事だろう、ミスター小橋。」


小橋はニヤリと笑う。


「トニーらしいぜ。」


橋本は静かに答えた。


「散々クソミソに言った。」


「それでも逃げなかった。」


「そんな奴を上に上げなくて、誰を上げる。」


小橋は深く頷いた。


「そういう会社だから、泉町精工は強いんだ。」


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