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ロットアウト

昭和五十八年十一月。


上場へ向けた準備は、いよいよ佳境を迎えていた。


取締役製造本部長・伊東信成の改革は更に進んでいた。


ある朝だった。


品質保証部から一本の電話が入る。


「本部長、小島工業でロットアウトです。」


信成は受話器を握ったまま目を閉じた。


「内容は。」


「加工寸法の確認ミスです。」


「全数不良。」


「特別採用は。」


「できません。」


「設計変更。」


「不可です。」


「被害額。」


「約二百万円です。」


静かに受話器を置いた。


「製造本部会議を開きます。」


その一言だけだった。




午後。


製造本部会議。


重苦しい空気が会議室を包んでいた。


品質保証課責任者・石川満が資料を開く。


「今回の不良は、小島工業によるロットアウトです。」


「加工工程での基本的な確認ミス。」


「全数廃却。」


「被害総額、約二百万円。」


誰も口を開かなかった。


小島工業。


昨年独立した、小島誠二の会社だった。


石川は続ける。


「独立後、小島工業の不良率は泉会でも最悪です。」


「数%あります。」


「私も小橋常務も、何度も現場へ足を運びました。」


「改善指導も繰り返しました。」


「残念ながら改善の兆しは見られません。」


隣の習志野毅が資料を閉じた。


「正直言って限界です。」


「これ以上は指導では解決できません。」


「取引停止。」


「さらに被害額二百万円の全額請求。」


「会社として当然の判断です。」


石川も頷いた。


「私も同意見です。」


「基本的なボカミスです。」


「救済できる余地はありません。」


会議室が静まり返る。


しばらく沈黙が流れた。


やがて、小橋伸夫がゆっくり口を開いた。


「……取引停止は仕方ない。」


石川が顔を上げる。


「しかし。」


「二百万だけは勘弁してやってくれ。」


習志野が眉をひそめた。


「常務。」


「独立したばかりなんだ。」


小橋は静かに続ける。


「工場を建てた借金もある。」


「機械の支払いもある。」


「預金なんか、ほとんど残っとらん。」


「二百万請求したら潰れる。」


習志野は首を横に振った。


「それでもルールです。」


「他の協力工場に示しが付きません。」


石川も腕を組んだ。


「私も習志野に賛成です。」


「品質を守る以上、例外は認められません。」


全員の視線が信成へ向いた。


信成は資料を閉じる。


静かだった。


怒っているわけでもない。


迷っている様子もない。



「皆さん。」


低い声が会議室に響いた。


「うちの指導力不足を置いといて、全額請求とは何事ですか。」


石川が息をのむ。


習志野も黙った。


信成は続ける。


「小島工業だけの責任ではありません。」


「改善できなかった泉町精工にも責任があります。」


誰も反論できない。


「村野證券の仁科さんは言いました。」


『上場とは、株を売ることではない。』


『社会から信頼を預かることです。』


信成はその言葉をゆっくり口にした。


「あの言葉を、私は忘れていません。」


会議室は静まり返る。


「協力工場一社、育てることもできない会社が、社会貢献など片腹痛い。」


「今の泉町精工は、単なる町工場ではありません。」


「丈山市に。」


「いや、社会に貢献すべき会社になろうとしています。」


「私は品質にもコストにも厳しく言ってきました。」


「しかし。」


「泉会の本当の目的は。」


「共存共栄です。」


信成は全員を見渡した。


「今回の被害額、二百万円。」


「泉町精工が半額、百万円を負担します。」



その瞬間。


会議室がどよめいた。


石川が思わず立ち上がる。


「本部長!」


習志野も驚きを隠せない。


「百万円も会社が持つんですか。」


信成は静かに頷いた。


「残り百万円は小島工業へ請求します。」


「支払いが困難なら、割賦で構いません。」


小橋は黙って信成を見つめていた。


信成は一枚の資料を机へ置く。


「ただし。」


再び空気が張り詰める。


「二度目はありません。」


「同種の品質事故は、全額負担していただきます。」


「傷、打コンなどの外観不良についても同じです。」


「外観品質は、お客様の信頼そのものです。」


「一切妥協しません。」


信成は全員を見渡した。


「本日をもって。」


「これを泉町精工の品質保証ルールとします。」


「例外はありません。」


誰も口を開かなかった。


厳しさと優しさ。


その両方を備えた、新しいルール。


役員会が終わった。


重い空気のまま、それぞれが席を立つ。


小橋が信成に近づく。


しばらく沈黙が流れる。


やがて小橋が笑った。


「信ちゃん。」


「信ちゃんらしくないな。」


信成は書類から目を離さない。


「そうですか。」


「半額も会社が持つなんてな。」


信成はペンを置いた。


少しだけ遠くを見る。


「……誠二さんには昔、お世話になりました。」


小橋は静かに頷く。


「会長の奥さんが亡くなった頃か。」


「はい。」


「あの頃、一番可愛がってくれたのは誠二さんでした。」


少し間が空く。


「ですが。」


信成はゆっくり首を振る。


「それで判断したわけではありません。」


「小島工業を潰したら。」


「泉町精工の指導力不足を認めることになります。」


「協力工場も育てられない会社が。」


「社会貢献など片腹痛いです。」


小橋は苦笑した。


「仁科さんの受け売りか。」


「ええ。」


「その通りです。」


「共存共栄。」


「それが泉会です。」


「だから最後まで育てます。」


小橋は信成の顔を見た。


「……会長も喜ぶわ。」


信成は何も答えなかった。


黙って次の改善資料を開いただけだった。




数日後。


泉会の定例会。


会議が終わり、内山工業の内山義雄と倉持産業の倉持正男は丈山工場の駐車場まで並んで歩いていた。


内山は煙草に火をつける。


「聞いたか。」


倉持が頷く。


「小島工業の件ですね。」


「会社が百万持ったそうです。」


内山は煙をゆっくり吐き出した。


「信成が決めたらしい。」


倉持は笑う。


「驚きました。」


しばらく沈黙。


やがて内山がニヤリと笑った。


「やるわい、あの白ブタ。」


倉持が吹き出す。


「見直しましたか。」


「まだ気に入らん。」


「相変わらず信成の顔見とると首絞めたくなる。」


二人は笑った。


内山は製造本部長室を見上げる。


今日も灯りがついている。


「あいつ。」


「俺ら協力工場も背負う覚悟だったんだな。」


倉持も静かに頷いた。


「ええ。」


内山は車のドアを開けた。


「しゃあねぇ。」


「もう少し付き合ったるか。」


倉持が笑う。


「上場までですか。」


内山はニヤリと笑った。


「いや、その先までだ。」


エンジンがかかる。


夕暮れの丈山工場を後にする車の窓から、製造本部長室の灯りが小さく見えた。


その灯りは、泉町精工だけではなく、泉会全体の未来を照らそうとしていた。


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