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兄弟

昭和五十七年十月。


上場へ向けた準備は、さらに急ピッチで進められていた。


取締役製造本部長・伊東信成が進める改革は、社内だけでなく協力工場にも大きな波紋を広げていた。


納期前納品禁止。


オーバー納入禁止。


数量不足は認めない。


納期遅れも認めない。


不良品は即返品。


その厳しさに、東那古野鉄工所は泉会を去った。


内山工業や倉持産業は理解を示したものの、不満を抱える協力工場はまだ数多く残っていた。


そんなある日。


社長室。


隆則は取締役営業本部長・伊東征広を呼んだ。


「征。」


「はい、社長。」


「信成の上場、どう思うか。」


「腹を割って話してくれや。」


征広は少し考え、ゆっくり口を開いた。


「社長。」


「次に進む道としては、最適解だと思います。」


隆則は黙って頷いた。


「社長も営業畑ですから、お分かりでしょうが。」


「我々は社員六百五十人、パートさんを入れれば八百人近い大所帯となりました。」


「もう町工場ではありません。」


「社長や営業担当が頭を下げるだけでは、会社の信用にも限界があります。」


「これからは会社そのものの信用が必要です。」


「上場は、その信用を得るための一番早い道です。」


隆則は腕を組んだまま聞いていた。


征広は続ける。


「ただ……。」


「信成兄さんは急ぎ過ぎです。」


「現場も協力工場も苦しい。」


「でも、あの人が止まることはありません。」


「だからこそ、小橋さんが必要なんです。」


「信成兄さんが前へ引っ張り、小橋さんが現場を支える。」


「私は営業で会社を支える。」


「社長には、その三人をまとめていただきたいんです。」


長い沈黙が流れた。


隆則は窓の外へ目をやったまま、しばらく何も言わなかった。


丈山工場の煙突から白い煙が立ち上っている。


あの煙の向こうで、何百人もの人間が汗を流し、機械の音に包まれながら働いている。


かつては、数名で始めた小さな工場だった。


それが今では、町の景色を変えるほどの会社になった。


その事実を噛みしめるほどに、隆則の胸の奥で、遠い日の痛みと温もりが同時によみがえってきた。


――昭和十八年。


伊東家の座敷は、しんと静まり返っていた。


白い布を掛けられた母が、まるで眠っているように横たわっている。


だが、その顔はあまりにも静かで、もう二度と目を開けないことを、幼い兄弟にもはっきりと告げていた。


五歳の信成は、母の傍らにすがりつくようにして泣いていた。


「母ちゃん……。」


「母ちゃん……。」


しゃくり上げる声は細く、途切れ途切れで、幼い喉が潰れそうになるほどだった。


十一歳の隆則は、その小さな背中を見ていられず、そっと抱き寄せた。


「泣くな、信成。」


「信成、泣くな。」


そう言った自分の声も、ひどく震えていた。


弟を安心させようとするほど、胸の奥から込み上げるものを抑えきれない。


頬を伝う涙は、拭っても拭っても止まらなかった。


まだ子どもだった隆則に、弟を守る力などあるはずもない。


それでも、泣きじゃくる信成を腕の中に抱えた瞬間だけは、兄として立たねばならないと思った。


その時、父・隆が静かに歩み寄ってきた。


深く沈んだ顔だったが、二人の肩に手を置くその掌には、確かな温もりがあった。


「隆則。」


「信成。」


「お前ら二人がな。」


「手ぇ取り合って頑張って。」


「立派に成長していくんだ。」


「お母さんは、ずっとそう言っとっただろ。」


その言葉に、兄弟は顔を上げた。


母のいない座敷で、父の声だけが、やけに遠くまで響いた。


隆則は涙をこらえながら頷き、信成もまた、泣き腫らした目で何度も頷いた。


その小さな手と小さな手は、震えながらも、確かに結ばれていた。

あの日の手のぬくもりを、隆則は今も忘れていない。




――社長室。


隆則は静かに目を閉じていた瞼を開けた。


机の上には『上場準備計画書』。


窓の外では、先ほどと同じ白い煙がゆっくりと空に溶けていた。



受話器を取り上げた。


「信成、ちょっと来い。」


数分後。


ノックの音が響く。


「失礼します。」


信成が部屋へ入った。


「座れ。」


向かい合う兄弟。


しばらく沈黙が続いた。


社長室の空気は張りつめていたが、その沈黙は決して冷たいものではなかった。


言葉にしきれない年月が、二人の間に静かに横たわっていた。


やがて隆則が口を開く。


「信成。」


「はい。」


「上場、やろう。」


信成の表情は変わらない。


だが、その目は兄だけを見ていた。


隆則は続けた。


「内山工業や倉持産業は分かってくれた。」


「だが、まだまだ不満を持っとる外注さんは多い。」


「東那古野鉄工所の進さんは残念だった。」


「俺が直接話そう。」


「少しは緩衝材になるはずだ。」


信成は驚いたように兄を見た。


その視線には、意外さだけではなく、長いあいだ胸の奥にしまい込んでいたものが、そっと揺さぶられる気配があった。


隆則は静かに笑う。


「信成。」


「こういう時こそ、手ぇ取り合わなきゃな。」


その声は、社長としてのものではなく、兄としてのものだった。


命令でも説教でもない。


ただ、幼い日に父の前で交わした約束を、もう一度確かめるような声だった。


少し間を置き、穏やかな声で続けた。


「母ちゃんが悲しむからな。」


その一言だった。


普段、感情をほとんど表に出さない信成の目が、ゆっくりと潤んだ。


泣きながら自分を抱き締めてくれた兄の腕。


「手ぇ取り合って頑張って」と言った父の声。


あの時、幼い自分はただ泣くことしかできなかった。


だが、兄は泣きながらも、自分を守ろうとしてくれていた。


その背中の大きさを、信成はずっと胸の奥で覚えていた。


厳しさの中にある不器用な優しさ。


言葉少なに積み重ねてきた年月。


ぶつかり合いながらも、決して切れなかった兄弟の絆。


それらが一気に胸へ押し寄せ、信成は唇を噛んだ。


「……兄ぃさ……。」


思わず漏れた言葉だった。


長い年月の中で、何度も飲み込んできた呼び名だった。


すぐに姿勢を正し、深く頭を下げる。


「……社長。」


「よろしくお願いします。」


その声は低く、しかし確かだった。


隆則は何も言わなかった。


ただ静かに頷いた。


その頷きには、社長としての決断だけではなく、兄として弟を受け止める覚悟があった。


信成もまた、その頷きの意味を、誰より深く理解していた。


あの日、母の死を前にして結ばれた小さな手は、長い歳月を経て、ようやく同じ未来へ向かって強く握り直されたのだった。


その日。


社長と製造本部長として。


そして兄と弟として。


二人はもう一度、手を取り合うことを決めた。


母との約束は、三十九年の歳月を経て、ようやく果たされようとしていた。


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