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白ブタから鬼へ

昭和五十七年秋。


村野証券を訪れてから二か月。


泉町精工では、取締役製造本部長・伊東信成の改革が容赦なく進められていた。


元々、融通の利かない真面目過ぎる性格。


怒鳴る姿など、ほとんど見たことがないが理詰めで相手を言い負かす。


そのため協力工場や現場では陰で白ブタと揶揄されていた。


昔から約束には厳しい。


納期は守る。


品質は守る。


数字は誤魔化さない。


それを会社全体へ徹底しようとしているだけだった。


「納期前の納品は禁止。」


「注文数以上のオーバー納入は禁止。」


「数量不足は認めません。」


「納期遅れも認めません。」


「不良品は即返品します。」


「例外はありません。」


工場には緊張が走った。


現場のやり方は大きく変わり始めた。


石川満でさえ口を開いた。


「信成さん、急ぎ過ぎです。」


習志野毅も頷く。


「現場が追いつきません。」


信成は静かに二人を見た。


「今まで考えていたことを、会社全体でやるだけだ。」


「それが出来ん会社は、生き残れん。」


石川も習志野も黙った。


反論はあった。


しかし、信成の言葉に迷いは一切なかった。


小橋伸夫は何も言わない。


外注を回り。


現場を回り。


信成の考えを伝え、不満を聞き続けた。


いつしか社内では、こんな噂が流れ始める。


「白ブタが鬼になった。」


誰が言い始めたのかは分からない。


だが、その呼び名は瞬く間に広がっていった。




その夜。


伊東家。


夕食の席だった。


妻・悦子が煮魚を並べる。


高校一年生の娘・裕美が父の顔を見た。


「パパ。」


信成が顔を上げる。


「最近、顔怖いよ。」


一瞬だけ箸が止まった。


「前はもっと笑ってたのに。」


悦子も少し心配そうに夫を見る。


信成は少し黙ってから答えた。


「仕事が忙しいだけだ。」


「そう。」


裕美はそれ以上聞かなかった。


信成も、それ以上話さなかった。


食事は静かに続いた。




翌日。


丈山工場。


泉会定例会。


協力会社の社長たちが顔を揃えていた。


信成は新しい納入基準を説明する。


質疑応答。


ゆっくり立ち上がった男がいた。


東那古野鉄工所社長・近藤進だった。


創業当時から泉町精工を支えてきた古株である。


「本部長。」


「はい。」


「あんた、ネジ屋の仕事分かっとるのかな。」


信成は黙って頷く。


近藤は机を叩いた。


「ネジ屋は数が無いと成り立たんのだ!」


会場が静まり返る。


「百本注文されても百本だけ作っとったら赤字だ。」


「百十本、百二十本作って余りは在庫にする。」


「そうやって飯を食ってきた。」


「それをオーバー納入禁止?」


「そんなこと言われたら、ネジ屋は食っていけん。」


信成は静かに答えた。


「近藤さん。」


「泉町精工は変わります。」


「皆さんにも変わっていただきたい。」


近藤は首を横に振った。


「変われん。」


「俺は俺のやり方で食っていく。」


信成は表情を変えない。


「残念ですが、今後は今まで通りのお取引はできません。」


長い沈黙。


近藤は信成を見つめた。


「本部長 いや……信ちゃん。」


「あんたは鬼か。」


その一言を残し、資料を机へ置いて部屋を出て行った。


東那古野鉄工所は、その日をもって泉会を脱退した。


重苦しい空気だけが残った。




会議が終わる。


ほとんどの協力会社が帰っていった。


残ったのは内山工業の内山義雄と、倉持産業の倉持正男だけだった。


内山は腕を組む。


「信ちゃん。」


「はい。」


「本気だな。」


「はい。」


信成は二人を見た。


「泉町精工は上場を視野に入れています。」


「噂は本当だったんだな。」


「そのためには泉町だけでは駄目です。」


「皆さんにも、一緒に強くなっていただきたい。」


「力を貸してください。」


倉持が静かに頷く。


「厳しいですが……やります。」


内山もため息をついた。


「しゃあねぇ。」


「付き合ったる。」


信成は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


内山は苦笑した。


「その代わりだ。」


「泉町が上場したら、俺は真っ先に株買うぞ。」


信成は顔を上げる。


内山はニヤリと笑った。


「信ちゃんがおる限り、泉町精工は儲け続ける。」


「そうじゃなきゃ、ここまで締め上げられ損だわ。」


信成は静かに頷いた。


「期待は裏切りません。」


その一言だけだった。




夕暮れ。


丈山工場。


内山と倉持は駐車場まで並んで歩いていた。


しばらく二人とも黙っていた。


やがて内山が煙草に火をつける。


「倉持。」


「はい。」


「あの野郎、調子に乗りやがって。」


倉持が苦笑する。


「今日は相当腹が立ちましたか。」


「当たり前だ。」


煙をゆっくり吐き出した。


「あいつの顔見とるとな。」


「ほんと首絞めたくなるわ。」


倉持は思わず吹き出した。


「そこまで言いますか。」


「言うわ。」


「俺ら協力会社をようここまで締め上げやがって。」


少し間が空く。


内山は工場を振り返った。


製造本部長室だけに、まだ明かりが灯っている。


「……でもな。」


「あいつ、本気だった。」


倉持も振り返る。


「ええ。」


内山は車のドアを開けた。


「しゃあねぇ。」


「今回は付き合ったる。」


「その代わり。」


「泉町が儲からなんだら承知せん。」


エンジンをかける。


アクセルを踏む直前、もう一度だけ工場を見た。


「白ブタ。」


「いつか地獄見せたるわ。」


車は夕暮れの丈山工場を後にした。


製造本部長室の明かりだけは、その夜も遅くまで消えることはなかった。


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