独立
昭和五十七年、盛夏。
山﨑川の堤防を、立河三郎は一人歩いていた。
蝉が鳴いている。
川面は静かだった。
立河は足元の小石を拾う。
平たい石だった。
軽く腕を振る。
石は水面を跳ねた。
一回。
二回。
三回。
四回。
五回。
やがて静かに沈んだ。
立河は波紋が消えるまで見つめていた。
遠くには泉町精工の旧本社工場の看板が見える。
創業以来、丈山に移るまで毎日通った景色だった。
「……引き際かな。」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
村野證券を訪れてから一か月。
泉町精工は大きく変わり始めていた。
取締役製造本部長伊東信成は矢継ぎ早に改革を打ち出した。
全製品のコストダウン。
原価管理の徹底。
購買価格の見直し。
さらに豊臣自動車のカンバン方式を導入した。
現場は混乱した。
工程が変わる。
置き場が変わる。
仕事の流れまで変わる。
協力会社も猛反発した。
泉会の定例会。
内山工業の内山義雄が声を荒らげた。
「これ以上単価を下げろなんて無茶ですわ。」
「うちらにも生活があります。」
信成は静かに答えた。
「単価を下げることが目的じゃありません。」
「無駄を減らしたいんです。」
「泉町だけじゃない。」
「皆さんも利益を出せる会社になってもらいたい。」
だが、簡単に理解される話ではなかった。
社内でも反発はあった。
石川満が言う。
「本部長、急ぎ過ぎです。」
習志野毅も珍しく異を唱えた。
「現場が追いつきません。」
信成は頷いた。
「分かってます。」
「だが、止まる訳にはいけないんだ。」
その横で、小橋伸夫は黙っていた。
外注を回り。
現場を回り。
信成の考えを伝え。
現場の不満を聞く。
誰よりも走り回り、調整役に徹していた。
その頃、小島誠二も、張り詰めた社内の空気に嫌気がさしていた。
昼休み。
工場裏。
小橋が煙草を吸っていると、立河が缶コーヒーを持って歩いてきた。
「小橋常務。」
「何だ、よそよそしいな、たっつぁん。」
立河は缶を開け、一口飲んだ。
「俺さ。」
「会社辞めようと思う。」
小橋は笑った。
「たっつぁん、冗談よせや。」
「本気だ。」
笑みが消えた。
「……何だって。」
「もう決めた。」
「何でだ。」
立河は少し笑った。
「信ちゃんも、俺がおったらやりにくいだろうからさ。」
「これから会社はもっと変わる。」
「俺みたいな古い人間がおったら、若い連中も迷う。」
「だったら身を引いた方がええわ。」
その日の夕方。
応接室。
伊東隆。
隆則。
信成。
小橋。
四人が立河を囲んでいた。
隆が口を開く。
「本当に辞めるんか。」
「はい。」
隆則も言う。
「まだ早いですよ。」
「会社には、立河さんの経験が必要だ。」
信成も頭を下げた。
「立河さん。」
「考え直してください。」
立河は首を横に振る。
「決めたんだ。」
隆が聞いた。
「辞めて何やる。」
立河は困ったように笑った。
「分からねえ。」
「まだ決めとらん。」
部屋の空気が止まる。
小橋が呆れたように立河を見た。
「馬鹿野郎。」
「たっつぁんなんて歯切りしかできねえだろ。」
立河も笑った。
「そうかもな。」
「歯車削るしか能がねえ。」
小橋は煙草を灰皿へ押し付けると、立ち上がった。
「だったら歯切り屋やれ。」
立河は顔を上げた。
「えっ。」
「創業ん時から、お前が使っとる山井のホブ盤。」
「十数台ある。」
「あれ、全部持ってけ。」
立河は驚いた。
「何言っとる。」
「そんなもん貰えん。」
「あの機械は、お前の手に一番馴染んどる。」
「あいつらも、お前と一緒に働いてきた。」
「最後まで使ってやれ。」
誰も反対しなかった。
隆も静かに頷く。
「持っていけ。」
「泉町を育てた機械だ。」
「今度は、お前を育ててくれる。」
立河は黙って機械の並ぶ工場を見た。
毎日油を差した。
毎日音を聞いた。
毎日歯車を削った。
その機械で飯を食う。
そんなことは考えたこともなかった。
しばらくして、小さく笑った。
「……歯切り屋か。」
小橋も笑う。
「お前、それしかできんだろ。」
立河は大きく頷いた。
「そうだな。」
「それなら食っていけるかもしれん。」
小橋は立河の肩を叩いた。
「一つだけ約束しろ。」
「何だ。」
「泉町、外から支えてくれや。」
立河は力強く頷いた。
「ああ。」
「任せとけ。」
「会社辞めても、俺ぁ泉町の人間だからな。」
昭和57年夏。
創業の日から泉町精工を支え続けた職人、立河三郎は、新しい人生へ歩き始めた。
その背中を見送る者たちは寂しかった。
しかし誰も、その決断を止めることはできなかった。
創業の日から泉町精工を支え続けた職人、立河三郎は独立した。
立河製作所。
創業メンバーが初めて独立して興した協力工場だった。
半年後、小島誠二も退社し、小島工業を創業する。
小橋は立河の時と同じように、小島が使い慣れた機械を託した。
会社を離れても、仲間であることは変わらない。
それが、泉町精工という会社だった。




