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天然四番

昭和五十七年初夏。


中日本新聞杯社会人軟式野球大会。


泉町精工野球部は、新しい体制で大会を迎えていた。


監督は馬場元。


助監督は石川満。


長年エースとしてチームを支えた仲村健一は、肘の故障によりユニフォームを脱いだ。


新たなエースは入社5年目、柳田仁。


そして四番捕手には、豊増工業高校からやはり入社5年目の都築敏夫。


誰もが「トシ」と呼ぶ男だった。


試合前。


ベンチでは柳田がスコアブックを開いていた。


相手打者の癖。


苦手な球種。


走塁の傾向。


細かく書き込まれた文字を、何度も確認している。


馬場は柳田の肩を叩いた。


「力むな。」


「お前の球なら十分通用する。」


柳田は大きく頷いた。


「はい。」


その横では、トシがキャッチャーミットを磨いていた。


石川が声を掛ける。


「トシ。」


「はい。」


「今日は捕るだけでいい。」


「はい。」


「配球は全部、柳田に任せろ。」


「はい。」


「余計なこと考えるな。」


トシは真顔で答えた。


「考えてません。」


石川は苦笑した。


「それでいい。」


馬場が小さく呟く。


「それが一番心配なんだがな。」


試合開始。


柳田は立ち上がりから球が走っていた。


一回。


一番打者を見逃し三振。


二番を遊ゴロ。


三番を空振り三振。


三者凡退。


石川が頷く。


「いい立ち上がりだ。」


柳田も少し肩の力が抜けた。


二回表。


一死二塁。


打席には相手の五番。


柳田はミット越しにサインを出した。


内角。


ストレート。


トシが頷く。


柳田は振りかぶった。


渾身のストレート。


その瞬間だった。


ボールがミットへ収まらない。


トシの横を転々と転がる。


「あっ!」


三塁へ。


さらに本塁へ。


一点。


球場がどよめいた。


柳田はホームへのバックアップに入りながら立ち尽くした。


(俺の球が悪かったのか……。)


トシは慌ててボールを拾う。


後続を何とか打ち取り、ベンチへ戻った。


石川が腕を組んで待っている。


馬場も険しい顔だった。


柳田は帽子を取る。


「すみません……。」


すると。


「トシ!」


石川の怒鳴り声が飛んだ。


「はい!」


トシが飛び上がる。


「何やっとる!」


「はい?」


「サイン見たか!」


「見ました。」


「何だった!」


トシは真顔で答えた。


「カーブです。」


石川が固まった。


「……は?」


トシは続けた。


「カープだと思いました。」


馬場が柳田を見る。


「柳田。」


「ストレートです。」


「だよな。」


石川は頭を抱えた。


「お前、サイン見間違えたんか!」


トシは少し考えた。


「あ……。」


「間違えました。」


「ストレート待っとらんで、カーブ待っとったんか!」


「はい。」


「捕れる訳ないだろ!」


「すみません。」


柳田は横でそっと胸をなで下ろした。


(俺じゃなかった……。)


その時だった。


トシが真顔で口を開く。


「でも。」


石川が睨む。


「何だ。」


「野球は何があるか分からないから面白いんですよ。」


沈黙。


「だから。」


「仕方ないです。」


石川は絶句した。


「何が仕方ない!」


ベンチが静まり返る。


馬場は帽子を脱ぎ、大きく天を仰いだ。


「……こりゃダメだ。」


その一言で、ベンチ中が吹き出した。


柳田も思わず笑ってしまう。


トシだけが、不思議そうな顔をしていた。


その裏。


泉町精工の攻撃。


相手投手は、この大会でも評判の右腕だった。


速くはない。


だが制球がいい。


低めへ丁寧に投げ込み、打者を焦らせる。


簡単には崩れない。


二死。


一、二塁。


打席には四番。


トシ。


左打席へ入る。


百七十八センチ。


九十キロ。


石川より一回り小さい。


だが、全身が筋肉の塊のようだった。


バットを立てるだけで、独特の威圧感がある。


相手捕手が内野へ叫ぶ。


「歩かせてもいいぞ!」


初球。


ボール。


二球目。


またボール。


三球目。


外れてボール。


ノースリー。


柳田がベンチで呟く。


「歩かせますね。」


馬場は腕を組んだ。


「そうだろう。」


だが石川は首を振った。


「いや。」


「四番と勝負します。」


相手バッテリーも腹を決めた。


四球だけは避けたい。


内角へ。


力いっぱいのストレート。


トシの身体が反応した。


狙いではない。


読みでもない。


来た。


そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。


思い切り引っ張った。


乾いた快音が球場に響く。


誰もがライト方向への当たりだと思った。


しかし。


打球は誰の予想も裏切った。


引っ張ったはずの打球は、逆方向の左中間へ鋭く伸びていく。


レフトが懸命に追う。


届かない。


フェンスを直撃した。


二塁走者が還る。


一塁走者も還る。


「回れ!」


馬場の右腕が大きく回る。


トシは迷わず二塁を蹴った。


全力疾走。


ヘッドスライディング。


「セーフ!」


二点適時三塁打。


球場が一気に沸いた。


トシは立ち上がる。


土を払うこともなく、三塁ベースの上で右拳を強く握り締めた。


「よっしゃあ!」


渾身のガッツポーズ。


ベンチが総立ちになる。


柳田も思わず拳を握った。


石川は左中間を見つめたまま、首をかしげた。


「……馬場さん。」


「何だ。」


「何で逆方向へ飛ぶんですか。」


馬場も苦笑した。


「俺に聞くな。」


「思い切り引っ張りにいっとったぞ。」


「普通ならライトでしょう。」


石川は腕を組んだ。


「理屈が分かりません。」


馬場は笑った。


「だからトシなんだ。」


石川も吹き出した。


「教えようがありませんね。」


「打撃理論が通用せん。」


三塁では、当の本人が満面の笑みを浮かべていた。


石川は大きく手を叩いた。


「トシ! ナイスバッティング!」


トシは照れくさそうに帽子のつばを触った。


馬場は笑いながら帽子を深くかぶり直した。


「細かいこと考えん奴は強いな。」


石川も苦笑する。


「考えとるのは、こっちだけでした。」


三塁ベースの上。


トシはもう次の打者を見つめていた。


何が良かったのか。


なぜ逆方向へ飛んだのか。


本人は何一つ考えていない。


ただ、来た球を思い切り振った。


それだけだった。


それが、泉町精工の新しい四番。


都築敏夫――天然四番だった。


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