村野證券
昭和五十七年、初夏。
国鉄丈山駅から那古野へ向かった。
同行したのは、多々良重雄だった。
車窓から流れる景色を眺めながらも、信成はほとんど口を開かなかった。
頭の中には、丈山工場で働く社員たちの姿が浮かんでいた。
歯車を削る音。
組立ライン。
油にまみれた作業服。
──あの工場を、もっと大きくしたい。
その思いだけが胸にあった。
那古野駅からすぐ。
村野證券那古野支店は、近代的なガラス張りのビルだった。
応接室へ通される。
窓の外には、テレビ塔を中心とした那古野の街並みが見えた。
しばらくして、一人の男が入ってきた。
公開引受部次長、仁科康之。
四十代半ば。
無駄のないグレースーツ。
穏やかな笑みを浮かべているが、その目だけは鋭かった。
数え切れない企業を見てきた男の目だった。
「お待たせしました。」
名刺交換を終えると、仁科はさっそく資料を手に取った。
分厚い決算書。
会社案内。
工場の写真。
一枚一枚、丁寧に目を通していく。
部屋には紙をめくる音だけが響いた。
やがて仁科が顔を上げた。
「では、少し質問をさせてください。」
そこからは尋問にも近かった。
「減速機事業の売上構成比は。」
「粗利益率の推移は。」
「株主構成は。」
「借入金の返済計画は。」
「監査役の経歴は。」
「関連会社との取引価格は適正ですか。」
「配当政策は。」
矢継ぎ早に飛んでくる質問。
一つ答え終えると、すぐ次が来る。
信成は落ち着いて答え続けた。
数字は頭に入っている。
迷うことはなかった。
隣では重雄が必死にメモを取っている。
質問は数字だけではない。
会社の考え方。
経営者としての覚悟。
組織の体質。
仁科が見ているのは、そこだった。
約一時間。
ようやく仁科は資料を閉じた。
静寂が流れる。
信成も重雄も、黙って次の言葉を待った。
仁科は静かに口を開いた。
「率直に申し上げます。」
その表情から笑みが消えた。
「泉町精工さんは、大変良い会社です。」
信成は黙って聞く。
「現場の力があります。」
「技術があります。」
「営業も強い。」
「だから受注が絶えないのでしょう。」
そこで言葉を切った。
「しかし。」
部屋の空気が変わる。
「現状では、上場はできません。」
重雄の手が止まった。
仁科は続けた。
「工場が立派だから上場できるわけではありません。」
「上場するのは会社です。」
「経営管理。」
「内部統制。」
「情報開示。」
「株主への説明責任。」
「その仕組みを、一から整えなければなりません。」
厳しい言葉だった。
だが、頭ごなしに否定しているわけではない。
何が足りないのか。
何を変えるべきなのか。
一つひとつ具体的に説明してくれた。
そして仁科は、少し窓の外へ目を向けた。
「証券会社の仕事は、会社を上場させることではありません。」
「社会に送り出すことです。」
信成は黙って耳を傾けた。
「投資家から託された資金で企業が成長し、雇用を生み、技術を育て、日本の産業を支えていく。」
「そういう会社を資本市場へ送り出すことが、私どもの使命だと思っています。」
「だからこそ、上場の基準は厳しいのです。」
「ですが、泉町精工さんには、その資格があると私は思っています。」
「今は、まだ足りないだけです。」
重雄は必死に書き留める。
信成は一言も口を挟まず、最後まで聞いた。
説明を終えた仁科は、ふっと表情を和らげた。
「本気で上場を目指されるのであれば、私どもも全力でお手伝いします。」
信成が顔を上げる。
「三年。」
仁科は首を横に振った。
「いや、五年かかるかもしれません。」
「それでも、挑戦されますか。」
間髪入れず、信成は答えた。
「もちろんです。」
迷いはなかった。
仁科は満足そうに頷いた。
「では、今日から始めましょう。」
「泉町精工を、上場に値する会社へ育てていきましょう。」
握手を交わした。
その瞬間だった。
信成は、この男なら信用できると思った。
村野證券を出ると、午後の日差しが街を照らしていた。
那古野駅へ向かって歩く。
しばらく無言だった。
やがて重雄が小さく口を開いた。
「……悔しいですね。」
信成は歩みを止めなかった。
「違う。」
重雄が顔を向ける。
「希望が見えた。」
「えっ。」
「門前払いじゃなかった。」
「足りないものを教えてもらえた。」
「それだけで十分だ。」
夕陽がビルの窓を赤く染め始めていた。
信成は空を見上げる。
丈山工場。
社員たち。
伊東隆。
小橋。
征広。
みんなの顔が浮かんだ。
静かに呟く。
「必ず上場する。」
その言葉には、以前とは違う重みがあった。
夢ではない。
目標でもない。
進むべき道になった。
重雄は力強く頷いた。
二人は並んで歩き続けた。
那古野の街並みの向こうには、泉町精工の新しい時代が待っていた。




