上場
昭和五十七年春。
泉町精工は創業以来、最も勢いのある時代を迎えていた。
丈山工場。
歯車を削るホブ盤の音。
熱処理炉の熱気。
組立工場では減速機が次々と完成していく。
受注は途切れない。
毎年設備を入れ替え、工場を増築し、それでも追いつかない。
しかし、その成長は新たな問題を生んでいた。
工場が狭い。
役員会。
長いテーブルの中央には、丈山工場の配置図が広げられていた。
取締役製造本部長、伊東信成が立ち上がる。
「現在、丈山工場は約一万二千坪です。」
図面を指し示す。
「設備投資を続けた結果、空きスペースはほぼありません。」
「歯車加工機も減速機組立ラインも限界です。」
常務取締役、小橋伸夫が口を開いた。
「そこで提案です。」
「丈山工場南側の三千坪を取得し、減速機専用工場を建設します。」
役員たちが図面へ身を乗り出す。
「減速機を新工場へ集約する。」
「現在の組立工場は鋳造工場と泉町熱処理へ転用する。」
信成が続けた。
「設備の流れも改善されます。」
「生産能力は三割以上向上する見込みです。」
営業本部長、伊東征広が頷いた。
「営業としても賛成です。」
「減速機の引き合いは毎月増えています。」
「今なら十分回収できます。」
信成は征広を見た。
「営業の数字は確認しています。」
それだけだった。
征広は、それ以上口を挟まなかった。
多々良重雄だけが、その空気を感じていた。
(信ちゃんはまだ征広君を信用していない……。)
信成は次の資料を開いた。
「問題は資金です。」
部屋が静かになる。
「銀行融資だけでは足りません。」
「そこで。」
一呼吸置いた。
「株式公開を目指します。」
役員室の空気が一変した。
「何だと!」
隆則社長が机を叩いた。
「ちょっと待て、上場だと?」
信成は落ち着いたままだった。
「はい。」
「主幹事証券会社を選定し、株式公開を目指します。」
「市場から資金を調達します。」
隆則は首を振った。
「馬鹿なことを言うな。」
「銀行がある。」
「今まで銀行融資でやってきたじゃないか。」
信成は静かに答える。
「これからも設備投資は続きます。」
「銀行だけでは限界があります。」
「なら借りればいい!」
「借金を恐れていたら会社は大きくなりません。」
「借金なら返せば済む。だが株主が入ったら、うちのやり方を好き勝手に言われるんだぞ!」
「創業家の会社だぞ!」
信成は兄を真っ直ぐ見た。
「会社は創業家だけのものではありません。」
「社員。」
「お客様。」
「取引先。」
「地域。」
「皆さんに支えられている会社です。」
「もっと強くならなければなりません。」
隆則は立ち上がった。
「信成!」
「社長、なんですか」
「身の丈を知れ!」
信成の表情が変わる。
「その言葉が。」
「会社を小さくするんです。」
静まり返る役員室。
小橋は腕を組んだまま二人を見ていた。
征広も黙っている。
重雄は息を呑んでいた。
兄弟がここまで真正面からぶつかる姿を、初めて見た。
その時だった。
会長席に座る伊東隆が静かに口を開いた。
「もうそのへんにしとけ。」
全員が隆を見る。
「会社はもう、お前らの時代だ。」
「好きにしたらええ。」
隆則が振り返る。
「会長!」
隆は首を横に振る。
「ただし。」
信成を見る。
「会社だけは潰すな。」
信成は深く頭を下げた。
「はい。」
「必ず守ります。」
役員会が終わった。
役員たちは無言で部屋を出ていく。
信成は一人、資料を鞄へしまっていた。
そこへ小橋が近づいてきた。
「信ちゃん。」
信成が顔を上げる。
「何ですか。」
小橋は少し笑った。
「俺が隆ちゃん……」
言いかけて首をかいた。
「いや。」
「社長を説得しようか。」
信成はゆっくり首を横へ振った。
「結構です。」
「でもな。」
「兄弟じゃないから言えることもある。」
信成は資料を閉じた。
「社長は間違っていません。」
「会社を守りたい。」
「その気持ちは私も同じです。」
「ただ。」
「守り方が違うだけです。」
小橋は黙って聞いていた。
「このまま突っ走るのか。」
「ええ。」
「結果で納得してもらいます。」
小橋は苦笑した。
「頑固だな。」
「誰に似た。」
信成も少し笑う。
「会長でしょう。」
二人は顔を見合わせて笑った。
笑いが収まると、小橋は真剣な表情になった。
「信ちゃん。」
「俺は最後まで付いていく。」
「減速機も。」
「上場も。」
「一緒にやろう。」
信成は静かに頷いた。
「ありがとうございます。」
「必ず成功させます。」
廊下で待っていた多々良重雄が近づいてきた。
「製造本部長。」
「資料はできています。」
信成は鞄を受け取る。
「シゲ。」
「はい。」
「明日。」
「村野証券へ行く。」
「本当に上場できる会社なのか。」
「直接聞いてくる。」
重雄は力強く頷いた。
「承知しました。」
信成は窓の外を見た。
丈山工場。
油にまみれた現場。
必死に働く社員たち。
この会社を。
もっと強くする。
もっと大きくする。
そのためなら。
誰に反対されても構わない。
信成は小さく呟いた。
「必ず上場する。」
その言葉を聞いたのは、多々良重雄だけだった。




