追憶
昭和五十三年秋。
退職して数日。
多々良正は丈山工場へ来ていた。
退職手続きで不足していた書類を取りに来ただけだった。
総務部。
「重雄、おるか」
人事課長、多々良重雄が顔を上げた。
「叔父さん」
「悪いな」
「書類ならすぐ出ます」
重雄は書類を探しながら言った。
「そうだ。会長なら野球場ですよ」
「野球場?」
「昼から練習試合があるらしくて」
正は頷いた。
「なら挨拶だけして帰るか」
丈山工場野球場。
三塁側ベンチ。
伊東隆は腕を組み、静かにグラウンドを見つめていた。
「会長」
「ああ、正」
隆は笑った。
「来たか」
「書類を取りに」
「もう2度とここには来ないと思っとったわ。」
「来てはいけないような言い方だなあ。」
二人は笑った。
グラウンドではブルペンで若い投手が投げ込んでいた。
石川満の引退後。
長年エースだった仲村に代わり、頭角を現した若手。
柳田仁。
丈山高校出身。
長身で細身。
神経質なほど研究熱心な投手だった。
捕手は四番、都築敏夫。
「柳田!」
乾いたミット音。
「ナイスボール!」
都築の大きな声が響く。
柳田は帽子を取り、額の汗を拭った。
その瞬間だった。
正の体が止まった。
息が止まる。
背中から汗が流れた。
細身の体。
短く刈った髪。
長いまつ毛。
陽の光を受けた目。
マウンドに立つ姿があまりにも
あまりにも似ていた。
震える声が漏れた。
「……や。」
「や……。」
隆が振り向く。
「どうした」
正は柳田から目を離せなかった。
「柳田……少尉……。」
昭和十八年。
南方。
武藤隼飛行隊。
飛行第五十七戦隊。
翌朝は総出撃だった。
格納庫では整備兵が最後の点検をしていた。
燃料の匂い。
機銃油の匂い。
兵達は酒を酌み交わしていた。
誰もが明日を保証されていなかった。
だから笑った。
誰かが歌い始めた。
『 エンジンの音 高らかに
柳田はゆく 雲の上 』
一人。
二人。
やがて全員が肩を組む。
武藤隼飛行隊
我らが誇る撃墜王
酒を掲げる。
「柳田少尉!」
「万歳!」
「万歳!」
「万歳!」
柳田清一少尉は照れくさそうに笑った。
「やめろ」
「明日も帰って来ますよ」
皆が笑う。
通信兵だった多々良正も笑っていた。
あの夜だけは。
戦争を忘れていた。
翌朝。
飛行場。
プロペラが回り始める。
通信室。
多々良は無線機の送話器を握った。
「柳田一番機、発進準備よし。」
柳田らしい落ち着いた声だった。
多々良は深く息を吸う。
「柳田一番機、発進を許可する。」
一拍。
受話器の向こうから返事が返る。
「了解。」
それが。
柳田清一少尉と交わした。
最後の会話だった。
その日の午後。
柳田少尉は敵機との空中戦で戦死した。
二度と。
その声が無線から聞こえることはなかった。
「正!」
隆の声で我に返った。
正は涙を流していた。
止まらなかった。
隆は驚いた。
戦争から帰って三十三年。
泉町精工創業以来三十三年。
正は一度たりとも戦争の話をしたことがなかった。
誰にも。
隆にも。
小橋にも。
重雄にも。
ただの一度も。
その正が。
泣いていた。
隆は静かに柳田を呼んだ。
「柳田!」
柳田が帽子を取って駆け寄る。
「はい!」
「紹介する。」
「先月ここを定年になった、多々良さんだ。」
柳田は深く頭を下げた。
「もちろん、存じております。総務部長さんですよね、柳田仁です。」
正は震える声で尋ねた。
「柳田くん。」
「お父さんのお名前は。」
「柳田健一です。」
正は続けた。
「その……ご兄弟は。」
柳田は少し考えた。
「父の兄ですか。」
「柳田清一です。」
「伯父ですが……何か。」
正は目を閉じた。
やはり。
そうだった。
柳田少尉。
あの人の血だった。
正はゆっくり頷いた。
「いや……。」
「よく似ていたものでな。」
それ以上は何も言わなかった。
夕方。
正は今村駅から名鉄電車に乗っていた。
窓際の席。
流れる田園。
夕焼け。
誰にも聞こえないほど小さな声で口ずさく。
『エンジンの音 高らかに
柳田はゆく 雲の上…… 』
そこで声が震えた。
歌えなかった。
涙だけが頬を伝った。
三十三年ぶりだった。
戦友を思って泣いたのは。
赤い名鉄電車は、夕日を浴びてさらに赤く染まった。




