潮時
昭和五十三年十月。
秋だった。
総務部長、多々良正は定年を迎えようとしていた。
六十歳。
泉町精工創業以来の功労者だった。
銀行。
税務署。
労働基準監督署。
社会保険事務所。
証券会社。
会社が大きくなるたび、多々良正の仕事は増え続けた。
資金繰り。
銀行交渉。
株主対応。
人事。
総務。
会社の裏側は、ほとんど正が支えてきた。
数年前から慰留は続いていた。
「あと二年」
「せめて一年」
誰もが引き留めた。
だが。
正の気持ちは変わらなかった。
退職。
それだけだった。
社長室。
伊東隆は煙草を吸っていた。
向かいには多々良正。
戦後。
何も無かった頃から三十年以上、一緒に会社を支えてきた。
沈黙。
やがて隆が口を開いた。
「正」
「何です」
「本当に辞めるのか」
正は苦笑した。
「またその話ですか」
「まただ」
「何回目です」
「わからんわ」
二人は笑った。
「もう決めました」
「顧問でもいい」
「嫌です」
「相談役でもいい」
「嫌です」
「週に一回来るだけでもいい」
「もっと嫌です」
隆は吹き出した。
「冷てぇ野郎だなぁ」
正は窓の外を見た。
工場の煙突が見えた。
昔は一本しか無かった。
今は何本も並んでいる。
「十分働きました」
「戦争も行った」
「会社でも仕事はこなした」
「もういいんじゃないかな」
静かな声だった。
隆は黙った。
正は続ける。
「戦友も減りましてね」
隆の表情が変わる。
「墓参りをしたいんです」
「で、生き残った連中にも会いたい」
正は少し笑った。
「向こうで怒られますから」
「そうか」
隆は苦笑いした。
しばらくして。
隆は煙草を灰皿に押し付けた。
「正」
「何です」
「お前が辞めるなら」
正が顔を上げる。
「俺も潮時かもしれん」
部屋が静まる。
「社長を降りる」
「隆則に渡す」
「俺は会長になる」
正は驚かなかった。
「良い御判断だと思います」
「もう」
「若い連中の時代です」
隆則。
信成。
小橋。
重雄。
征広。
会社はもう次の世代で動いていた。
隆は静かに頷いた。
総務部。
重雄の机には資料が山積みだった。
正の引継ぎ。
銀行資料。
借入一覧。
就業規則。
株主名簿。
覚えることはいくらでもあった。
正が言う。
「重雄」
「はい」
「銀行を信用するな」
重雄が笑う。
「いきなりですね」
「だが敵にもするな」
「はい」
「担当者を見るな」
「支店長を見ろ」
「はい」
「支店長を見るな」
「本店を見ろ」
重雄は黙ってメモを取る。
正は続けた。
「数字は嘘をつかん」
「人は嘘をつく」
「だから数字を見ろ」
「分かりました」
その時だった。
コンコン。
「失礼します」
若い社員が入ってきた。
無理やり七三分けにした天然パーマ。
銀縁眼鏡にギョロっとした目。
まだ二十三歳。
総務課。
福井明人だった。
「課長」
「来年度採用予定者の資料です」
重雄が受け取る。
「そこに置いてくれ」
「はい」
福井は資料を机へ置いた。
だが。
帰らなかった。
正が見る。
「今年入った子だな。」
「はい」
「福井明人です」
「大学は」
「那古野市立大学経済学部経営学科です」
「ほう」
正が頷く。
「何を勉強した」
福井は少し考えた。
「中庸です」
重雄が苦笑した。
「また始まった」
正は首を傾げた。
「何だそれは」
福井は眼鏡を押し上げた。
「大学の教授に教わりました」
「白か黒かだけで物事を見るな、と」
正は黙って聞いていた。
「社会には正解が無いことが多いそうです」
「多分、人事もそうです」
「全員が納得する人事はありません」
「銀行との交渉も同じです」
「こちらだけが得をしても長続きしません」
福井は続ける。
「これが良い」
「これが悪い」
「ではなく」
「これなら差し支えない」
「こちらの方が差し支えない」
「その落とし所を探すことが中庸だと教わりました」
部屋が静まった。
重雄は福井を見た。
採用面接の日を思い出していた。
学生達は皆、
海外。
改革。
成長。
夢ばかり語った。
その中で。
福井だけが言った。
『会社が円滑に動けば、それで差し支えありません』
変な学生だった。
だが。
総務にはこういう人間が必要だと思った。
だから採った。
正は福井を見つめる。
やがて笑った。
「変な若者だな」
福井は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「褒めとらんぞ」
部屋に笑いが広がった。
退職の日。
総務部には全員が集まっていた。
花束。
拍手。
記念品。
正は照れ臭そうだった。
「やめろやめろ」
誰もやめなかった。
最後の挨拶。
正は皆を見渡した。
「世話になりました」
「後は若い者に任せます」
それだけだった。
長い演説は無かった。
正らしかった。
帰る前。
重雄を呼ぶ。
「重雄」
「はい」
正は数秒考えた。
「会社を潰すな」
重雄は深く頭を下げた。
「はい」
短いやり取りだった。
だが。
それだけで十分だった。
玄関前。
伊東隆が待っていた。
「まだ居たんですか」
正が笑う。
「最後くらい見送る」
二人は並んで歩き始めた。
秋風が吹く。
「正」
「何です」
「先に遊ぶなよ」
正は笑った。
「お前も来い」
二人は笑った。
創業者。
そして参謀。
三十年以上。
泉町精工を支え続けた二人だった。
夕陽が二人の背中を照らしていた。
長く伸びた影は、ゆっくりと正門の外へ消えていく。
その日。
泉町精工はまた一つ、世代を変えた。




