秘密
昭和四十七年二月。
花田乙七の告別式。
斎場には黒塗りの車が次々と到着していた。
若崎重工。
富士山電機。
タキヤ。
クラウザー。
那古野だけでなく、日本の産業界を支える企業の幹部達だった。
その光景を見て。
一人だけ目の色を変えている男がいた。
橋本登だった。
「ほう」
橋本は腕を組んだ。
「若重の倉田専務」
「富士山電機の山下専務」
「タキヤの滝谷社長か」
信成が嫌な予感を覚えた。
「橋本さん」
「何だ」
「変なことしないでくださいよ」
橋本は眉をひそめた。
「失敬な。変なこととは何だ」
「営業です」
「信成boy、営業ではない」
橋本は胸を張った。
「技術交流だよ」
隆則が呆れた。
「同じじゃないですか」
橋本は聞いていなかった。
胸ポケットから真新しい名刺を取り出した。
『 泉町精工株式会社
開発本部長
橋本 登 』
金文字だった。
小橋は顔をしかめた。
「勝手に刷ったな」
「当然だ」
「花田さんの葬式だぞ」
「だからやらなきゃならんのだ」
小橋は天井を見上げた。
「花田さん」
「すみません」
案の定だった。
焼香が終わるや否や橋本は動いた。
若崎重工倉田専務。
富士山電機山下専務。
タキヤ鈴村常務。
見つけては近づく。
名刺を渡す。
そして語る。
延々と語る。
「花田さんとはギヤードモーターで一緒に仕事をしましてね」
山下専務が頷く。
「そうですか」
橋本は満足そうだった。
「ええ」
「花田さんは人を褒めないでしょう」
「ですが私の設計は褒めていました」
信成が顔を覆った。
橋本は続ける。
「大した設計だと」
「見る目のある人でした」
小橋が思わず口を挟む。
「故人を利用するな」
「利用ではない」
橋本は真顔だった。
「事実だ」
確かに事実だった。
だから余計に始末が悪かった。
少し離れた場所。
立河三郎が腕を組んで見ていた。
そして呟いた。
「・・・あの野郎、トニー谷またいな顔しやがって」
小橋が吹き出した。
「全くだ」
立河は鼻を鳴らす。
「花田さんもあの世で呆れとるわ」
橋本は次の獲物を探していた。
だが。
突然。
動きが止まった。
顔色が変わる。
真っ青だった。
信成が驚く。
「どうしました」
橋本は答えない。
入口を見つめていた。
そこにいた。
クラウザー取締役生産本部長。
金澤孝吉。
熊のような大男だった。
現場叩き上げ。
鬼軍曹。
橋本の顔から血の気が引く。
「げっ」
思わず声が漏れた。
そして。
何事もなかったように方向転換した。
柱の陰へ向かう。
隠れようとしていた。
信成は目を疑った。
橋本が逃げる。
そんな姿は初めてだった。
だが。
運が悪かった。
別方向から声が飛んだ。
「おお!」
橋本が固まる。
振り返る。
クラウザー会長。
窪慎太郎だった。
「橋本君じゃないか!」
橋本の顔から血の気が引く。
「・・・どうも」
窪は嬉しそうだった。
そして後ろを向く。
「金澤!」
橋本は目を閉じ下を向いた。
「橋本君がおるぞ!」
金澤が振り向く。
橋本を見る。
数秒。
沈黙。
やがて。
「おおっ、橋本」
低い声だった。
「お久しぶりです」
橋本は引きつった笑顔を作った。
「そうだな」
金澤はそれだけだった。
だが橋本の額には汗が浮いていた。
その様子を見ていた小橋は違和感を覚えた。
おかしい。
橋本が怯えている。
あの橋本が。
誰にでも噛み付く男が。
告別式終了後。
斎場裏。
喫煙所。
雪が降っていた。
橋本は一人で煙草を吸っていた。
そこへ小橋が来た。
「おい」
橋本は振り向かない。
「何だ」
「金澤さんが怖いのか」
沈黙。
煙だけが流れる。
「別に」
「嘘つけ」
橋本は答えなかった。
小橋は笑った。
「金澤さんがクラウザー辞めた理由か」
橋本の手が止まった。
図星だった。
長い沈黙。
やがて橋本が言った。
「誰にも言うな」
「何をだ」
「本当の退職理由だ」
橋本は遠くを見た。
雪が降っていた。
「辞めた表向きは設計思想の違いだ」
「違うのか」
「半分な」
昭和三十八年。
クラウザー。
若い橋本は今以上に嫌な男だった。
設計は天才。
人格は最低。
現場と毎日のように喧嘩していた。
ある日。
大喧嘩になった。
「作れんのはYou達の能力が低すぎるからだ!」
橋本が怒鳴る。
現場も怒鳴り返す。
「作れん図面描くな!」
そこへ金澤が来た。
当時は生産課長だった。
「やめろ」
橋本は止まらなかった。
「黙れ」
次の瞬間。
拳が飛んだ。
橋本は床へ転がった。
工場中が静まり返る。
金澤は大きな声で言った。
「設計は一人で機械作っとるんじゃねぇ」
橋本は立ち上がろうとした。
だが。
悔しかった。
情けなかった。
涙が出た。
止まらなかった。
そして。
現場の連中が橋本を見て笑った。
橋本は拳を握った。
数日後。
辞表を出した。
話は終わった。
小橋は何も言わなかった。
橋本は苦笑した。
「情けない話だろ」
沈黙。
橋本は煙草を咥え直した。
「笑え」
小橋は首を傾げる。
「何をだ」
「皆の前で殴られて」
「泣いて」
「笑われた」
橋本は煙を吐いた。
「You」
小橋が顔を上げる。
「笑いたかったら笑っていいぞ」
小橋は吹き出した。
「何だその言い方」
小橋はしばらく笑った。
そして言った。
「本当に馬鹿だな」
橋本は鼻を鳴らした。
「Youに言われなくても、わかっとるわ」
しばらく沈黙。
雪だけが降っていた。
小橋が橋本を見る。
真新しいスーツ。
金文字の名刺。
自信家。
嫌味。
天才。
昔から大嫌いだった。
現場を馬鹿にする。
人を苛立たせる。
花田の葬式で売り込みまで始める。
最低だ。
だが。
この男も人間だった。
傷があった。
誰にも言えない傷が。
小橋は少し笑った。
「言わんよ」
橋本が顔を上げる。
「そうか」
「その代わり」
「何だ」
小橋はニヤリとした。
「これからあんたのことトニーって呼んでいいか」
橋本は数秒固まった。
「なんじゃそりゃ」
「トニー谷に似とる」
「どこがだ」
「全部だ」
橋本は呆れたように鼻を鳴らした。
「構わんよ」
小橋は笑った。
「ありがとう、トニー」
橋本は振り返らなかった。
だが。
少しだけ肩が震えていた。
怒っているのか。
笑っているのか。
小橋には分からなかった。
花田乙七の告別式の日。
誰も知らない橋本登の秘密を知った男がいた。
そしてその日を境に。
小橋伸夫は橋本登を嫌いなまま、
少しだけ好きになった。




