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感電死

昭和四十七年二月。


昼休みが終わったばかりの時間だった。


雪がちらついていた。


取締役製造本部長、小橋伸夫の机の電話が鳴った。


小橋は受話器を取った。


「小橋だ」


返事がない。


雑音だけが聞こえる。


「もしもし」


数秒後。


かすれた声が聞こえた。


「……小橋君かね」


第三電気商会のジジイだった。


東條電機、花田の戦友。


だが様子がおかしい。


声が震えていた。


息も荒い。


小橋は眉をひそめた。


「なんだ爺さん」


「花田がな……」


言葉が途切れた。


嫌な予感がした。


「花田さんがどうした」


「花田が……」


沈黙。


そして。


受話器の向こうから嗚咽が聞こえた。


「おい」


「花田が死んだ」


小橋は固まった。


何を言われたのか理解できなかった。


「何だって」


「感電して死んだ」


「誰が」


「花田だ」


小橋は思わず笑った。


笑うしかなかった。


「冗談だろ」


「冗談じゃねぇんだ」


「花田さんだぞ」


「そうだ」


「感電なんかするわけねえだろ」


「したんだ」


「嘘だ」


「俺もそう思った」


ジジイは泣いていた。


「だが死んだんだ」


小橋は立ち上がった。


椅子が倒れた。


事務所中の視線が集まる。


「花田さんが」


「そうだ」


小橋は受話器を握り締めた。


指先が白くなった。


花田乙七。


泉町精工の電気を支えてきた男。


機械が止まれば現れる。


配線が焼ければ現れる。


原因不明の故障が出れば現れる。


そして必ず直して帰る。


そんな男だった。



ジジイは静かに話し始めた。


花田の実家は岐阜県白川。


数日前。


大雪だった。


山奥の集落が停電した。


電線が切れていた。


雪が深く。


中日本電力も近づけない。


夜だった。


寒かった。


近所の婆さん達が帰省中の花田を頼った。


「乙七っあん」


「助けておくれ」


「寒くて死んでまう」


花田は困ったように笑ったという。


「しょうがねえなあ」


作業服を着た。


工具を持った。


そして吹雪の中へ出て行った。


切れた電線箇所はすぐ見つかった。


花田は電柱に登った。


高圧スイッチを落とす。


確認する。


もう一度確認する。


絶縁を確認する。


問題なし。


作業を始める。


修理は完璧だった。


やがて地上へ降りた。


スイッチを入れる。


次の瞬間。


真っ暗だった集落に灯りが戻った。


歓声が上がった。


婆さん達が泣いて喜んだ。


だが。


花田は振り返らなかった。


電柱を見上げた。


「確認してくる」


そう言った。


それが最後だった。


もう一度だけ登った。


最終確認。


いつもの花田だった。


手を抜かない。


妥協しない。


その時。


突風が吹いた。


雪山から吹き下ろした風だった。


花田の小さな身体が揺れた。


足場を失った。


反射的に手を伸ばした。


その先には。


今しがた通電した高圧線があった。


それで終わりだった。


小橋は受話器を置いた。


何も言えなかった。


事務所が静まり返る。



信成が近づいた。


「小橋さん」


小橋は顔を上げた。


真っ白だった。


「花田さんが死んだ」


その一言で。


全員が凍り付いた。


誰も信じられなかった。




数日後。


通夜。


小さな斎場だった。


祭壇には花田乙七の遺影が飾られていた。


相変わらず不機嫌そうな顔だった。


その横に。


古い兵隊帽が置かれていた。


色は抜けていた。


縁は擦り切れていた。


所々焦げていた。


小橋は見覚えがあった。


花田が作業中ずっとかぶっていた帽子だった。


なぜ兵隊帽をいつもかぶっていたのか。


花田も語らなかった。


どこの戦場だったのか。


何があったのか。


誰も知らない。


ただ。


酒を飲んだ時だけ。


花田は時々その帽子脱ぎ、眺めていた。


それだけだった。


小橋は棺の前へ進んだ。


しばらく黙っていた。


だが。


突然棺にしがみついた。


「馬鹿たれが!」


斎場中に響いた。


誰も止められない。


「起きろ!」


「花田さん!」


棺を叩く。


涙が止まらない。


「自動化も始まる!」


「減速機もこれからだ!」


声が潰れた。


「俺は電気なんか分からんのだぞ!」


「全部あんた任せだったんだぞ!」


「勝手に死ぬな!」


「花田さん!」


子供みたいに泣いた。


その横で。


立河三郎が棺を見ていた。


やがて口を開いた。


「花田さん」


声が震えていた。


「覚えとるか」


誰も口を挟まない。


「昭和四十一年だ」


「雷が丈山工場に落ち、機械が全部止まった」


立河の目から涙が落ちた。


「皆諦めとった」


「あんただけが徹夜しとった」


肩が震えた。


「俺は思った」


「死ぬまで働く馬鹿だとな」


唇を噛んだ。


「だがな」


「死ぬ時まで働けとは言っとらん」


涙が止まらない。


「こんなに早く逝く奴があるか」


「馬鹿たれ」


立河も泣いていた。


伊東隆は遺影を見ていた。


伊勢湾台風。


泥だらけになった工場。


誰もが終わったと思った。


だが。


花田だけは違った。


「まだ使える」


そう言って配線を直した。


モーターを回した。


機械を蘇らせた。


あの日の笑顔が浮かぶ。


隆は顔を伏せた。


肩が震えていた。




翌日。


告別式。


多々良重雄は受付に立っていた。


そして驚いた。


黒塗りの車が次々と到着する。


若崎重工。


富士山電機。


タキヤ。


クラウザー。


日本を代表する企業ばかりだった。


しかも。


社長。


専務。


常務。


会長。


そんな人物ばかりだった。


花田乙七。


東條電機。


社員二人の電気屋。


その葬儀だった。


それなのに。


日本を動かす人間達が頭を下げていた。


焼香が終わる。


控室で静かな会話が始まった。


「花田さんには助けられました」


タキヤ常務の鈴村国広だった。


「主力ラインが止まりかけた」


「誰も原因が分からなかった」


鈴村は涙を浮かべた。


「花田さんは五分でした」


『ここが通っとらん』 と。


本当にそこだった。


若崎重工の倉田専務も頷いた。


「うちも同じです」


「大型プラント立上げでした」


「誰も解決できなかった」


「花田さんだけだった」


『設計した奴連れて来い』


その場で図面を書き直した。


倉田は深く頭を下げた。


「若重はあの日から花田さんに頭が上がりません」


クラウザー会長の窪慎太郎が続いた。


「昭和三十八年だった」


皆が静まる。


「工場が火事になりかけた」


「制御盤が燃えた」


「メーカーもお手上げだった」


窪は遺影を見た。


「花田さんだけだった」


『こんなもん一時間だ』


本当に一時間だった。


「わしはあの日から」


「花田さんの言うことだけは逆らわんと決めた」


そして。


富士山電機専務の山下真一が口を開いた。


「花田は私の同期でした」


部屋が静まる。


山下は祭壇の兵隊帽を見た。


「あの帽子を知っています」


誰も口を挟まない。


「花田は富士山電機の電気技師でした」


「花田が唯一慕ってた上司が軍から呼ばれ技師将校になりましてね」


山下は少し笑った。


「あいつをすごく可愛がっていた」


『召集令状来る前に』


『こっちへ来て修理をしろ』


そう言ったそうです。


花田は本当に志願した。


「通信兵でした」


「無線機を直した」


「発電機を直した」


「通信設備を直した」


山下は帽子を見つめた。


「あの焦げ跡は戦地のものです」


部屋が静まり返る。


「何があったかは話しませんでした」


「ですが」


山下の目に涙が浮かんだ。


「戦争から帰っても変わらなかった」


「壊れた物がある」


「困っている人がいる」


「そう聞けば飛んで行く」


「昼でも」


「夜でも」


「雪でも」


「台風でも」


涙が頬を流れた。


「最後までそうでした」


「最後まで花田乙七は花田乙七でした」


誰も言葉を発しなかった。



小橋は壁際で聞いていた。


知らなかった。


へそ曲がりの電気屋だと思っていた。


だが違った。


花田は日本中の工場を支えていた。


そして。


多くの人間を助けていた。


告別式が終わった。


参列者が帰り始める。


だが。


祭壇の前に三人だけ残っていた。


初代若造。


二代目若造、鬼頭孝宏。


三代目若造。


全員。


一度は東條電機を辞めた男達だった。


花田についていけなかった。


逃げ出した。


だが。


気付けば全員が一人前の電気技師になっていた。


鬼頭はタキヤの信頼を得ていた。


それも花田が頭を下げて仕事を取ってきたからだった。


鬼頭が遺影を見上げた。


唇が震えていた。


「社長」


返事はない。


「社長」


もう一度呼んだ。


返事はなかった。


鬼頭は膝をついた。


「嫌です」


肩が震える。


「嫌ですよ」


涙が落ちる。


「俺まだ何も返してません」


嗚咽が漏れた。


「毎日馬鹿たれって怒鳴ったじゃないですか」


「工具投げたじゃないですか」


泣き笑いになった。


「俺、本気で辞めてやろうと思ったんですよ」


初代若造も泣いていた。


三代目若造も泣いていた。


鬼頭は続けた。


「でも」


「タキヤの仕事」


「俺に回してくれたじゃないですか」


声が震えた。


「鬼頭使ってやってくれって」


「頭下げてくれたんでしょう」


涙が止まらない。


「知ってるんです」


「俺知ってるんです」


鬼頭は顔を覆った。


「俺」


「一人前になったら」


「ありがとうって言うつもりだったんです」


声が潰れた。


「まだ言ってないんですよ」


「一回も」


そして。


顔を上げた。


「社長」


「俺、タキヤで褒められました」


「一人で直したんです」


「報告したかったんです」


嗚咽が漏れる。


「俺、もう若造じゃないと思ってました」


涙が溢れた。


「でも」


「社長が死んだら」


「俺」


「やっぱり若造でした」


斎場に泣き声が響いた。


誰も顔を上げられなかった。


出棺のベルが鳴った。


棺が動く。


雪が降っていた。


祭壇には焦げた兵隊帽だけが残されていた。


富士山電機の若い電気技師だった男。


通信兵だった男。


東條電機を興した男。


泉町精工を支えた男。


日本中の工場を動かした男。


花田乙七。


その日。


昭和が一人。


雪の空へ帰っていった。


参列した誰一人として。


その男に足を向けて寝られる者はいなかった。


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