三男
昭和四十六年春。
泉町精工に一人の男が入社した。
伊東征広。
二十五歳。
社長、伊東隆の三男だった。
営業係長待遇。
配属先は営業部。
営業部長は実兄の伊東隆則だった。
朝から営業部はざわついていた。
「係長だと?」
「いきなりか」
「俺ら何年やっとると思っとる」
「社長の息子だからだろ」
面白くない。
そう思う社員は少なくなかった。
営業は実力の世界だった。
どれだけ受注を取るか。
どれだけ利益を残すか。
肩書では飯は食えない。
だから余計だった。
本社前。
一台の車が止まる。
降りてきた男を見て寺田幸生は思わず笑った。
「なんだあいつ」
背が高い。
兄達より頭一つ大きい。
耳にかかる長めの髪。
細いネクタイ。
洒落たシャツ。
工場よりホテルが似合いそうだった。
「社長の息子だぞ」
隣の社員が言う。
「俳優か何かかと思ったわ」
寺田は鼻で笑った。
「チャラチャラしとるな」
征広は社員達の視線に気付いていた。
だが何も言わなかった。
静かに頭を下げた。
「伊東征広です」
「よろしくお願いします」
それだけだった。
昼。
営業部会議。
部長席には隆則。
征広は末席。
係長だから当然だった。
会議は進む。
クラウザー。
タキヤ。
サンダーディーゼル
見積。
納期。
利益率。
営業らしい話が続く。
征広は黙っていた。
ひたすらメモを取っていた。
隆則が声をかけた。
「征広」
「はい」
「何か言いたそうだな」
周囲が振り返る。
征広は少し迷った。
「少しだけ」
「言いなさい」
征広は資料を開いた。
「クラウザー向け減速機ですが」
「西ドイツ向けと仕様統一できると思います」
営業課長がすぐに言った。
「いや、そりゃ無理でしょ。」
「向こうと日本じゃ違う」
「向こうで売ってましたから」
征広は静かだった。
「共通化した方が部品在庫が減ります」
「利益率も上がります」
営業課長は顔をしかめた。
「ここはクラウザーじゃないし」
空気が重くなる。
征広は黙った。
言い返さない。
隆則も黙って資料を見ていた。
計算する。
数字を追う。
営業部長として。
兄としてではなく。
数字だけを見る。
数分。
長い沈黙だった。
やがて顔を上げた。
「採用」
ざわつく会議室。
営業課長も驚く。
隆則は短く言った。
「弟だからじゃない」
「利益が出るからだ」
それだけだった。
会議後。
隆則は征広を呼び止めた。
「征広」
「はい」
「促される前に自分から意見しろよ」
「分かりました」
「終わってから言われると困るし」
征広は少し笑った。
「すみません」
兄弟だった。
だが営業部では上司と部下だった。
数日後。
征広は発送係へ顔を出した。
寺田が通い箱を運んでいる。
汗だくだった。
「大変ですね」
寺田は振り向く。
「坊ちゃん、いや、係長」
「はい」
「なんで泉町来たんです」
突然だった。
周囲も聞いている。
征広は少し考えた。
「家だからです」
寺田は笑った。
「クラウザーの方が良かったんじゃないですか」
征広は少し間を置いた。
「そうかもしれません」
寺田が意外そうな顔をする。
「だったらなんでです」
征広は通い箱を見る。
油まみれの床を見る。
働く社員達を見る。
そして答えた。
「泉町精工を知らないままなのが嫌だったんです」
寺田は黙った。
正直な奴だった。
少なくとも嫌な奴ではない。
そんな気がした。
その後も征広は毎日工場を歩いた。
第一工場。
第二工場。
熱処理。
運輸課。
発送係。
営業係長なのに。
誰よりも現場にいた。
昼休み。
食堂。
パートのおばちゃん達が驚いていた。
「征広さん」
「はい」
「名前覚えとるの?」
征広は笑った。
「山本さんですよね」
「杉浦さん」
「田中さん」
周囲が驚く。
重雄も見ていた。
昼休み後。
重雄は聞いた。
「全部覚えたんですか」
征広は首を振る。
「まだ半分です」
「半分?」
「来月には全員覚えます」
重雄は笑った。
変わった男だった。
その夜。
社長室。
隆が煙草を吸っていた。
「どうだ」
「面白いです」
「そうか」
しばらく沈黙。
やがて征広が言った。
「一つ分かりました」
「何だ」
「まだ信用されてません」
隆は笑った。
珍しく笑った。
「当たり前だ」
「はい」
「社長の息子だからな」
征広も苦笑する。
「そうですね」
隆は煙草を灰皿に押し付けた。
そして言った。
「十年かけろ」
征広は父を見る。
「十年ですか」
「十年だ」
「長いですね」
「信用は時間がかかる」
征広は静かに頷いた。
窓の外には工場の灯りが見えた。
兄達のような天才ではない。
そう思っていた。
だが。
人を見ること。
人を覚えること。
人の話を聞くこと。
それだけは誰にも負けない気がした。
伊東征広。
二十五歳。
営業係長。
この日。
誰も歓迎していなかった。
誰も期待していなかった。
だが。
後に泉町精工を創業者の会社から本当の企業へ変える男は、
静かにその第一歩を踏み出していた。




