借金
昭和二十五年。
クラウザーから持ち込まれた歯車図面は、
泉町精工の工場を静かに変え始めていた。
それまでの主力は、
ミシン針だった。
冷間圧造用金型。
パンチ。
専用機械部品。
精度は高かった。
だが、
歯車は別物だった。
しかも今回クラウザーが求めていたのは、
工作機械用の単品歯車だけではない。
急成長を始めた、
タキヤ電動工具向け量産部品。
その加工を、
クラウザー内部の部品加工部門が大規模に引き受け始めていた。
必要になるのは、
大量の精密歯車だった。
工場二階の事務所。
机の上へ図面が並ぶ。
小橋伸夫は、
長い時間黙って図面を見ていた。
歯形。
寸法公差。
加工指示。
そして数量。
隆が煙草へ火を付ける。
「どうだ。」
小橋はゆっくり答える。
「……できます。」
「本当か。」
「ただし。」
そこで初めて顔を上げた。
「生半可な設備投資じゃ無理です。」
隆は黙った。
窓の外では、
旋盤の回転音が響いている。
今の泉町精工は、
職人技術で持っている会社だった。
だが量産となれば話が違う。
必要なのは、
歯車専用機だった。
ボブ盤。
しかも、
数台では足りない。
「何台要る。」
「最低二十。」
「そんなにか。」
「タキヤ向け始まったら止まりません。」
静かな口調だった。
だが小橋には見えていた。
この仕事は、
会社を変える。
成功すれば、
泉町精工は次へ進む。
失敗すれば、
潰れる。
数日後。
隆は樫野木鉄工所へ向かった。
大型ボブ盤十台。
さらに、
山井産業製小型ボブ盤十台。
見積総額、
二千五十万円。
社員五十名の町工場には、
あまりにも重い金額だった。
事務所では、
多々良正が帳簿を睨んでいた。
無口な男だった。
大正生まれ。
復員兵。
戦地から帰った時、
陰で「のこ」と呼ばれた。
生き残った人間への、
嫌な言葉だった。
多々良は否定もしなかった。
ただ、
二度と金で会社を潰したくないと思っていた。
多々良正は、
戦後、名古屋港近くの小さな機械工場へ入った。
旋盤数台の工場だった。
復興需要で忙しかった。
昼夜機械が止まらない。
社長は言っていた。
「これから日本は景気良くなる。」
だが、
二年後には潰れた。
理由は簡単だった。
設備を増やし過ぎた。
材料代が払えなくなった。
鋼材価格も上がった。
手形が回らなくなった。
ある朝行くと、
機械へ赤紙が貼られていた。
差押えだった。
工員たちは黙って立ち尽くしていた。
社長はいなかった。
夜逃げしたと聞いた。
多々良はその時初めて、
会社は技術だけでは生き残れないと知った。
現金が尽きれば終わる。
給料が止まれば、
人も消える。
どれだけ腕があっても、
金が無ければ工場は止まる。
それを骨身に染みて覚えた。
「社長。」
帳簿を閉じる。
「返せなかったら終わります。」
隆は煙草をくわえたまま言う。
「終わらん。」
「皆そう言います。」
多々良は淡々としていた。
部屋が静かになる。
小橋だけが図面を見続けている。
多々良は続けた。
「現金無くなれば、
会社は止まります。」
それは脅しではなかった。
現実だった。
材料代。
給料。
手形。
どれか一つ止まれば終わる。
だが隆は引かなかった。
「設備入れな、
うちは一生ミシン針屋だ。」
その言葉に、
小橋が初めて頷いた。
最初に向かったのは、
中日銀行だった。
クラウザーのメインバンク。
応接室は静かだった。
支店長は見積書を見ながら言う。
「二千五十万ですか。」
「はい。」
「伊東さん。」
眼鏡を外す。
「五十人の会社ですよね。」
「ええ。」
「少し大き過ぎませんか。」
隆は黙ったまま聞いている。
支店長は続ける。
「ただ、
クラウザー案件というのは大きい。」
長い沈黙。
やがて言った。
「一千万なら。」
満額ではなかった。
それでも大きかった。
隆は深く頭を下げた。
その足で、
瀬戸田信用金庫へ向かう。
こちらはもっと泥臭かった。
何度も通った。
工場写真も持って行った。
機械。
工員。
図面。
そして、
クラウザーの将来性。
「今、
工作機械が来る。」
「タキヤも伸びる。」
「愛知は変わる。」
誰よりも、
隆自身が興奮していた。
瀬戸田信金は、
最終的に八百万を出した。
だが、
まだ足りない。
残り二百五十万。
隆は家を担保へ入れた。
貯金も崩した。
その夜。
工場二階の居間は静かだった。
後妻が茶を置く。
「そんなに危ないんですか。」
隆は即答した。
「危ない。」
「なら、
どうして。」
煙草へ火を付ける。
しばらく黙ったあと、
低く言う。
「今やらんと終わる。」
隣室では、
隆則が受験勉強をしていた。
来年、
大学を受ける。
比較的穏やかな性格だった。
人付き合いが上手い。
隆は、
それも分かっていた。
一方、
中学生の信成は違った。
その夜も、
歯車図面を黙って見ていた。
寸法。
歯形。
加工順。
異様に集中している。
隆が聞く。
「分かるのか。」
信成は少し頷く。
「ちょっと。」
「面白いか。」
「……はい。」
その目は、
どこか小橋に似ていた。
現場を見る目だった。
夜遅く。
隆は工場へ降りた。
古い旋盤。
ミシン針時代から使ってきた設備。
戦後の焼け跡から、
ここまで会社を支えてきた機械だった。
だが、
次の時代が来る。
歯車。
量産。
電動工具。
そして、
後に自動車へ繋がっていく精密加工。
まだ誰も知らない。
ギア音で苦しむ事も。
熱処理歪みで悩む事も。
営業クレームが山のように来る事も。
だが、
その地獄を引き受ける男たちが、
すでに現れ始めていた。
小橋。
そして、
まだ幼い信成。
隆は暗い工場を見回した。
銀行へ頭を下げ続けた悔しさが、
胸に残っている。
その夜、
隆は初めて強く思った。
銀行に命を握られる会社では駄目だ。
もっと大きくならなければならない。
工場の奥で、
静かに呟く。
「会社変える。」




