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ミシン針

昭和二十五年。



那古野市堀川区。


朝になると、


運河沿いの工場地帯は一斉に音を立て始める。


鋳物屋のハンマー。


旋盤の回転音。


プレス機の衝撃音。


油と鉄粉の匂いが、


湿った海風と混ざって街へ流れていく。


戦争が終わってまだ五年。


焼け跡は残っていた。


だが工場だけは止まらなかった。


愛知県は、


もう次の時代へ向かい始めていた。


その中心にいたのが、


クラウザーだった。


戦前からミシンで名を馳せ、


戦後はタイプライターにも進出。


さらに今、


“機械を作るための機械”を作り始めていた。


工作機械。


後に日本の製造業を支える巨大産業になる世界へ、


クラウザーは足を踏み入れ始めていた。


そして、その足元を支えていた町工場の一つが、


泉町精工だった。


社員五十名。


堀川区の外れにある、


小さな工場だった。


だが、


そこで扱っていた仕事は、


決して単純なものではない。


当時、


ミシンは日本の輸出を支える“ドル箱産業”だった。


ミシン針一本の精度が、


そのまま製品品質へ直結する。


ほんの僅か寸法が狂えば、


糸が切れる。


縫製が乱れる。


針が折れる。


国家規格も厳しかった。


泉町精工は、


そのミシン針製造を支えていた。


針そのものだけではない。


冷間圧造用の金型。


糸通し穴を打ち抜くパンチ。


専用機内部のシャフトやギヤ。


工場では、


工具鋼を旋盤で削り出し、


職人たちがミクロン単位の精度と向き合っていた。


また、


工場奥にはカム式自動旋盤が並ぶ。


長い鋼線から、


針の根元だけを均一に太く残し、


先端へ向けて段差を作る。


油に濡れた機械が、


昼夜止まらず回り続ける。


当時としては、


最先端に近い精密加工現場だった。


伊東隆は、


そんな工場を一日中歩き回っていた。


油まみれの作業服。


煙草。


怒鳴り声。


社長というより、


現場の親方に近い。


工員たちと同じ食堂で飯を食い、


夜になれば旋盤の前へ立つ。


図面も読む。


機械も触る。


そして誰よりも、


野球の話をする。


「おい小橋!」


工場の奥へ怒鳴る。


「はい!」


振り返ったのは、


まだ二十二の小橋伸夫だった。


三愛商業。


甲子園経験者。


肩を壊し、


野球を諦めて泉町精工へ入った男だった。


最初は、


会社の軟式野球部に呆れた。


「……ゴム毬か。」


そう漏らした時、


周囲は苦笑いした。


だが、


小橋はすぐ現場へ馴染んだ。


飲み込みが異常に早かった。


段取り替え。


刃物交換。


機械保全。


気付けば、


現場の中心にいる。


「お前、野球より現場向いとるな。」


隆が笑う。


小橋は汗を拭きながら答える。


「どうですかね。」


だが、


その目は真剣だった。


旋盤を見ている時の小橋は、


打席へ立つ時と同じ目をしていた。


昼過ぎ。


事務所では、


多々良正が帳簿を開いていた。


復員兵だった。


大正生まれ。


戦地から帰った時、


周囲から陰で「のこ」と呼ばれた。


生き残った人間への、


嫌な言葉だった。


多々良はそれを否定もしなかった。


無口な男だった。


だが数字には異常に厳しい。


現金残高。


材料代。


手形期日。


全部頭へ入っている。


そして現場も理解していた。


工場へ出て、


機械を黙って眺める事もある。


普通の経理屋ではなかった。


「社長。」


多々良が帳簿を閉じる。


「今月、鋼材また上がります。」


隆は煙草へ火を付ける。


「全部上がるな。」


「戦後ですから。」


「儲からんな。」


「潰れてないだけマシです。」


小橋が吹き出した。


隆も笑う。


だが多々良は笑わない。


戦争で、


本当に消える会社を見てきた。


だから、


金が尽きる怖さを知っていた。


夕方。


工場へクラウザーの担当者が来る。


スーツ姿だった。


工場を一通り見回し、


完成したミシン針用工具を手に取る。


「相変わらず綺麗ですね。」


隆は鼻を鳴らす。


「精度悪かったら針折れる。」


担当者は頷く。


そして、


少し間を置いて言った。


「伊東さん。」


「なんだ。」


「今度、別件で相談したい仕事があるんです。」


「別件?」


担当者は笑う。


「歯車です。」


工場の音だけが響いた。


小橋が顔を上げる。


多々良も、


帳簿から目を離した。


歯車。


ミシン針とは、


まるで違う世界だった。


担当者は続ける。


「クラウザー、


工作機械を本格的にやります。」


隆は黙ったまま聞いている。


「精密歯車が必要なんです。」


窓の外では、


夕陽が工場地帯を赤く染めていた。


隆は煙草を揉み消す。


そして、


静かに聞いた。


「……図面、あるのか。」


担当者は鞄から封筒を取り出した。


泉町精工の運命が、


少しずつ動き始めていた。

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