劇薬
昭和四十一年秋。
泉町精工。
営業部長室。
伊東隆則は時計を見ていた。
珍しく落ち着かない。
約束の時間だった。
事務員が扉を開ける。
「橋本さん、お見えです」
「通してくれ」
数秒後。
男が入ってきた。
古いが仕立ての良いテーラードスーツ。
細い身体。
きっちり撫で付けたオールバック。
太いロイド眼鏡。
四十代半ば。
どこか大学教授にも見えるし、詐欺師にも見える。
男は部屋を見回した。
「いやぁ」
「懐かしいねぇ」
そして隆則を見る。
「ミスター伊東」
隆則は苦笑した。
「その呼び方やめてください」
「なんで?」
「格好いいじゃない」
「格好よくありません」
「私は好き」
橋本登。
元クラウザー工業設計課。
隆則の十年以上上の先輩だった。
その時。
後ろにいた小橋が立河に小声で言った。
「この人、本当に凄いんか?」
かなり小さい声だった。
だが。
橋本が振り向いた。
「凄いよ」
全員が固まる。
橋本は当然のように続けた。
「クラウザーの電化された工業用ミシン」
「知っとるでしょ?」
誰も答えない。
「アレ、私がデザインしたんよ」
そして隆則を見る。
「知ってたよね?」
「ミスター伊東」
「知ってます」
橋本は満足そうに頷く。
「そうそう」
「あとタッピングマシン」
「ギヤヘッドのやつ」
「アレも私」
小橋が顔をしかめた。
「誰も聞いてねぇぞ」
橋本は平然としている。
「聞かれなくても事実だから」
立河が小声で呟いた。
「変な人だな」
橋本。
「変じゃない」
「天才」
小橋。
「聞こえとる」
橋本。
「地獄耳だから」
隆則が試験室へ案内する。
「ミスター伊東のリトルブラザーか」
「伊東信成です。」
「オッケー、信成boy」
信成は苦笑いしながら図面を差し出した。
橋本は黙って受け取る。
図面を見る。
試験結果を見る。
加工工程を見る。
組立図を見る。
十分ほど。
誰も喋らなかった。
やがて。
橋本の肩が震え始めた。
「フッ・・・」
信成が顔を上げる。
橋本。
「フフッ・・・」
そして。
「ブハハハハハ!!」
試験室に笑い声が響いた。
信成の顔が真っ赤になる。
「何がおかしいんですか」
橋本は腹を抱えていた。
「いやぁ」
「久しぶり」
「こんなん久しぶりに見た」
「最高や」
信成。
「だから何が」
橋本。
「完璧なんよ」
「強度計算完璧」
「歯車設計完璧」
「公差指示完璧」
「教授なら百点」
信成は少し安心した。
だが。
橋本は続けた。
「だから笑っとる」
「一番分かってない奴の作り方やな」
空気が凍った。
信成の眉が吊り上がる。
「どういう意味ですか」
橋本は図面を指差した。
「信成boy」
「君は減速機を設計してない」
「教科書を設計しとる」
橋本はページをめくった。
「この同心度」
「この垂直度」
「この平行度」
「全部正しい」
「でもね」
「加工屋が泣く」
ページをめくる。
「鋳物屋も泣く」
さらにめくる。
「組立工も泣く」
最後のページ。
「経理は失神する」
小橋が吹き出した。
立河も笑った。
信成だけ笑えない。
橋本は試験機の前へ行った。
減速機を回す。
最初は静か。
やがて。
ギャァァ・・・
異音。
橋本は黙っていた。
停止。
ケースを触る。
ブラケットを触る。
ベアリング周辺を見る。
また回す。
再び異音。
停止。
沈黙。
ほんの数分だった。
橋本は頷いた。
「なるほど」
信成が前へ出る。
「分かったんですか」
「大体」
あまりにも軽い。
「原因は?」
橋本はブラケットを指差した。
「ここ」
信成。
「肉厚不足?」
橋本。
「強度的には足りとる」
赤鉛筆を取り出す。
図面へ線を引く。
「だから君は気付かない」
信成。
「?」
橋本。
「教科書しか知らないYouには」
「分かるはずない部分だから」
肩をすくめる。
「しゃーない」
「しゃーない」
小橋。
「腹立つなぁ」
橋本は無視した。
「運転すると熱を持つ」
「ここが伸びる」
「シャフト芯間が変わる」
「バックラッシュが減る」
「だから鳴く」
信成は固まった。
「でも・・・」
「止めて測れば元に戻っています」
橋本。
「当たり前」
「冷えたから」
信成は言葉を失った。
考えたこともなかった。
橋本は赤線を増やしていく。
「ここリブ追加」
一本。
「ここも」
もう一本。
「ここは形状変更」
さらさら描く。
迷いがない。
「これで型屋大喜び」
「鋳物屋大喜び」
「加工屋大喜び」
「組立工大喜び」
「そして」
「私も大喜び」
立河。
「最後が本音やな」
橋本。
「設計者だからね」
⸻
信成は図面を見ていた。
驚いた。
ただ補強しただけではない。
鋳造を考えている。
加工を考えている。
組立を考えている。
熱変形を考えている。
量産まで考えている。
しかも。
肉厚を増やしたのに重量増加は最小限。
加工箇所はむしろ減っている。
信成は理解した。
これは別の世界だった。
大学で学んだ設計ではない。
製品を作り続けてきた人間の設計だった。
橋本がニヤリと笑う。
「誤解しないでね」
「Youの歯車デザイン」
「悪くない」
信成が顔を上げる。
橋本。
「むしろ良い」
「計算も綺麗」
「大学なら百点」
「教授は喜ぶ」
「でも製品は教授が買うわけじゃない」
信成は黙ったまま唇を噛んだ。
橋本はロイド眼鏡を押し上げる。
「Youは歯車をデザインした」
「私はね」
「プロダクツまでデザインしちゃうんよ」
「勝手にね、へへへっ」
沈黙。
信成は初めて負けを認めた。
悔しかった。
だが圧倒的だった。
「橋本さん」
「ん?」
「どうしたらいいんですか」
大学卒業して以来、初めてだった。
信成が素直に教えを請うたのは。
橋本は満足そうに笑った。
「細かいやり方教えてもいいが」
小橋。
「嫌な予感がする」
立河。
「だよな」
橋本。
「条件があるんよね」
信成。
「条件?」
橋本。
「完成したら銘板付けるでしょ」
全員が目を閉じた。
橋本。
「そこに」
「Design by N.Hashimoto」
沈黙。
橋本。
「カタログにも」
「Design by N.Hashimoto」
小橋。
「ダメだ。もう帰れ」
橋本。
「まだ話終わってない」
立河。
「こいつ、やっぱ変人だ」
橋本。
「変人じゃない」
「インターナショナルな人なだけ」
小橋。
「意味分からん」
その日。
信成は知った。
本物の設計屋を。
そして泉町精工は知った。
技術は本物。
性格は最悪。
能力は超一流。
扱いは極めて難しい。
企業の倫理観や常識を一気に破壊してしまいそうな劇薬が
今まさに泉町精工へ足を踏み入れたことを。




