夢
昭和四十一年一月。
正月休みが終わり、泉町精工は再び動き始めていた。
丈山工場。
泉町熱処理。
外注課。
全てが順調だった。
仕事はいくらでもあった。
歯車は作れば売れた。
誰が見ても泉町精工は成長していた。
だが。
営業部長、伊東隆則だけは満足していなかった。
その日。
隆則は県外の得意先を回っていた。
帰りの電車。
鞄の中から見積書を取り出す。
歯車。
単価九百二十円。
シャフト。
単価六百三十円。
隆則は窓の外を見た。
先ほど見たカタログを思い出していた。
若崎重工製減速機。
販売価格三万八千円。
富士山電機製ギヤードモーター。
販売価格六万二千円。
中身は知っている。
歯車。
シャフト。
軸受。
ケース。
自分たちでも作れる物ばかりだった。
いや。
一番難しい歯車は泉町精工が作っている。
それなのに。
儲かるのは完成品メーカーだった。
隆則は小さく呟いた。
「絶対おかしいだろ・・・」
電車の窓に映る自分の顔を見る。
10年前。
クラウザーで見た工場。
設計室。
試験室。
開発部。
営業会議。
あの会社は泉町で作った歯車を使った製品を売っていた。
そして利益を得ていた。
泉町精工は。
一番大変なところを作っているのに。
一番儲からない。
その理不尽がどうしても気に入らなかった。
数日後。
役員会。
社長室。
伊東隆。
多々良正。
小橋伸夫。
そして隆則と信成。
珍しく重い空気だった。
隆が煙草に火を付ける。
「で」
「今日は何だ」
隆則が立ち上がった。
全員が見る。
「減速機をやりたいと思います」
静かになった。
多々良正が眼鏡を外す。
小橋が腕を組む。
隆だけが黙っていた。
隆則は続けた。
「ギヤードモーターもです」
誰も喋らない。
やがて多々良正が言った。
「急だな」
「急ではありません」
隆則は即答した。
「ずっと考えていました」
机に資料を置く。
クラウザー。
若崎重工。
富士山電機。
各社のカタログ。
減速機。
ギヤードモーター。
モーター駆動装置。
様々な製品。
隆則はそれを指差した。
「皆、歯車を使っています」
「当たり前だ」
小橋が言う。
隆則は頷いた。
「その歯車を作っているのは誰ですか」
誰も答えない。
「泉町です」
静寂。
「一番難しい部分を作っているのは我々です」
「しかし一番儲かっているのは我々ではありません」
多々良正が腕を組んだ。
「付加価値か」
「はい」
隆則は頷いた。
「私は気に入りません」
少しだけ笑いが起きた。
隆則らしい。
だが本人は真顔だった。
「歯車一個千円」
「減速機三万円」
「ギヤードモーター六万円」
「納得できません」
「隆ちゃんらしいな」
多々良正が笑いながら言った。
「本気です」
隆則は真顔だった。
「私はクラウザーで勉強しました」
全員が黙った。
若い頃の話だった。
泉町精工へ入る前。
クラウザーで修行した男。
それが隆則だった。
「向こうはメーカーでした」
「うちは歯車屋でした」
「技術は負けていません」
「でも利益は圧倒的に負けています」
静寂。
小橋が初めて口を開いた。
「作れるのか」
隆則は答えた。
「作れます」
即答だった。
「歯車はある」
「熱処理もある」
「加工もある」
「品質管理もある」
「外注網もある」
「足りないのは設計だけです」
信成が初めて口を開いた。
「そこですね」
全員が信成を見る。
「歯車単体なら問題ありません」
「ですが減速機は製品です」
「軸受、ケース、潤滑、振動、騒音、寿命」
「全部考えなければなりません」
小橋が頷いた。
「その通りだ」
信成は続けた。
「ただ可能性はあります」
「同立社大学にも相談してみます」
隆則が頷く。
多々良正。
「金は掛かるぞ」
小橋。
「試作は失敗するぞ」
「設計屋がおらんぞ」
全員反対ではない。
全員現実を言っているだけだった。
隆則は嬉しかった。
反対されない。
それだけで十分だった。
その時。
社長の隆が口を開いた。
「やれ」
全員が顔を上げた。
隆は煙草を灰皿に押し付けた。
「失敗したらその時考える」
「まずやってみろ」
隆則は思わず笑った。
久しぶりだった。
子供の頃から変わらない。
父はいつもそうだった。
やる前から諦めるな。
ただそれだけだった。
数日後。
京都。
同立社大学。
工学部機械工学科。
信成は懐かしい校舎を歩いていた。
研究室の前で立ち止まる。
伝導伝達装置研究室。
学生時代を過ごした場所だった。
扉をノックする。
「失礼します」
中から声がした。
「おう」
「伊東か」
教授はすぐに気付いた。
白髪が増えていたが、雰囲気は変わらない。
「久しぶりです」
「歯車屋はどうだ」
「忙しいです」
教授が笑う。
「お前は筋が良かった」
「さすが歯車屋の息子だと思ったよ」
信成も笑った。
学生時代。
教授からそう言われたことが何度もあった。
歯車の話になると誰よりも詳しかった。
研究も評価された。
設計だって出来ると思っていた。
並の設計者には負けない。
そう自負していた。
教授が尋ねる。
「今日は何の用だ」
信成は鞄から図面を取り出した。
「減速機です」
教授の表情が変わる。
「ほう」
研究室の机に図面が広げられる。
信成は説明を始めた。
泉町精工。
減速機事業。
試作計画。
教授は黙って聞いていた。
やがて。
小さく笑った。
「面白いな」
信成も少し嬉しくなった。
教授は図面を見続ける。
数分。
沈黙。
そして。
一本の線を指差した。
「ここだな」
信成が覗き込む。
「ここ?」
「そうだ」
教授は椅子にもたれた。
「歯車は分かる」
「強度も分かる」
「計算も合っている」
信成は頷いた。
教授は続ける。
「だが」
「製品設計は別だ」
信成の笑顔が少し消えた。
「別ですか」
「別だ」
教授は断言した。
「歯車屋は大抵そこを間違える」
窓の外では冬の日差しが校庭を照らしていた。
教授は図面を閉じた。
「面白い挑戦だ」
「だが」
「思っているより難しいぞ」
信成は黙った。
教授はさらに言った。
「減速機は歯車だけでは出来ない」
「むしろ歯車以外の方が厄介だ」
信成は図面を見つめた。
その時はまだ。
本当の意味を理解していなかった。
後に。
この言葉が泉町精工を何度も苦しめることになる。
だが今は違う。
夢の方が大きかった。
大学を出る。
夕暮れ。
信成は校門の前で立ち止まった。
空を見上げる。
減速機。
ギヤードモーター。
泉町精工ブランド。
出来る。
いや。
やらなければならない。
そんな気がしていた。
まだ誰も知らない。
この夢が。
泉町精工最大の挑戦になることを。




