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誘い

昭和三十九年六月。


東京。


丸の内の帝商高井本社ビルは、朝から人で溢れていた。


出勤する社員。


取引先。


銀行員。


制服姿の受付嬢。


磨き上げられた床。


巨大な時計。


すべてが整っていた。


多々良重雄は人事部の机に座り、辞令案に目を通していた。


大阪支店営業課長。


名古屋支店経理係長。


札幌営業所。


関連会社出向。


紙一枚で人が動く。


紙一枚で人生が変わる。


それが人事部だった。


「多々良君。」


課長が声を掛ける。


「はい。」


「来年度採用の大学訪問、君に任せる。」


「承知しました。」


「君なら安心だ。」


重雄は微笑んだ。


評価されている。


期待されている。


それは分かっていた。


だが心は動かなかった。


机の引き出しには転属願いの控えが入っていた。


営業部希望。


昨年も出した。


一昨年も出した。


結果は変わらない。


却下。


理由も変わらない。


君は人事向きだから。


重雄は窓の外を見た。


東京駅が見える。


新幹線が発着している。


昭和三十九年。


日本は豊かになろうとしていた。


帝商高井も伸びていた。


誰もが羨む会社だった。


その翌週、仕事が一段落し


重雄は名古屋へ帰った。


母親の顔を見に行くという名目だった。


本当は違う。


信成から電話があった。


久しぶりだった。


幼馴染。


伊東信成。


同じ昭和十二年生まれ。


待ち合わせは栄の喫茶店だった。


煙草の煙が漂う店内で、二人は向かい合った。


「信ちゃん、元気そうだな。」


「シゲも。」


しばらく昔話をした。


同級生。


教師。


野球。


受験。


話は尽きなかった。


「東京どうだ。」


信成が聞いた。


「相変わらずだ。」


「出世しそうか。」


「さあな。」


「嘘つけ。」


重雄は笑った。


「信ちゃんこそどうなんだ。」


「相変わらず歯車だ。」


「好きだなぁ。」


「好きだな。」


信成は即答した。


昔からそうだった。


好きなものに迷いがない。


重雄は少し羨ましくなった。


会計を済ませると、信成が立ち上がった。


「工場見ていくか。」


「今からか。」


「今から。」


「急だな。」


「いつもだ。」


重雄は笑った。


確かにそうだった。


泉町精工。


門をくぐる。


油の匂い。


鉄の匂い。


機械の音。


帝商高井では決して嗅がない匂いだった。


工場へ入った瞬間だった。


「バカたれ!」


怒鳴り声が響いた。


重雄が振り返る。


工場の隅で何か大きな装置が組まれている。


その横で兵隊帽を被った小柄な男が腕を組んでいた。


東條電機の花田乙七だった。


「だからそうじゃない!」


「バカたれ!」


相手は樫野木鉄工の前田龍一だった。


前田は仏頂面で図面を見ている。


花田が怒鳴る。


前田が何か答える。


また花田が怒鳴る。


周囲の誰も気にしていない。


重雄だけが驚いていた。


「何だあれ。」


信成が笑う。


「東條電機の花田さん。」


「取引先か。」


「取引先。」


「なんで怒鳴ってる。」


「機嫌がいいから。」


重雄は吹き出した。


「あれで機嫌いいのか。」


「かなり。」


前田は淡々と装置を見ている。


花田は怒鳴っている。


周囲は笑っている。


変な会社だった。


信成は装置を見ながら言った。


「最近は中卒の若いのがどんどん入ってくる。」


「人手不足か。」


「人手も足りんが、教える側も足りん。」


そう言った信成の顔には、少しだけ経営者の顔が見えた。


機械を増やすだけでは駄目だ。


人も育てなければならない。


重雄は何も言わなかった。


その感覚は人事部にいる自分にはよく分かる気がした。


その時。


「信ちゃん!」


今度は別の声だった。


小橋伸夫だった。


額に汗を浮かべ、作業服姿のまま歩いてくる。


「おう。」


「サンダーディーゼルのどうなった。」


「来週。」


「遅い。」


「しょうがない。」


「しょうがなくない。」


小橋は本気だった。


重雄は呆れた。


帝商高井なら会議室で話すようなことを、工場の真ん中でやっている。


しかも誰も違和感を持っていない。


さらに奥では立河三郎が歯車を手に取っていた。


何も喋らない。


ただ歯面を見ている。


周囲の誰も話しかけない。


まるで医者が患者を診ているようだった。


信成が小声で言った。


「立河さん。」


重雄は頷いた。


名前は聞いていた。


泉町精工の生き字引。


そんな話を。


事務所へ入る。


営業から戻った隆則が誰かと話している。


誰かが走る。


誰かが笑う。


誰かが電話を取る。


慌ただしい。


だが活気があった。


帝商高井より遥かに小さい会社だった。


人も少ない。


規模は明らかに小さい。


それなのに妙に勢いがあった。


事務所の隅。


叔父の多々良正がいた。


帳簿を見ている。


重雄に気付く。


しばらく見つめる。


「来たか。」


「来た。」


それだけだった。


昔から変わらない。


折り合いは良くない。


だが嫌いでもない。


不思議な関係だった。


正は再び帳簿へ目を落とした。


信成はいろいろ見せてくれた。


帰る頃には夕方になっていた。


工場にはまだ明かりがついている。


花田の怒鳴り声もまだ聞こえる。


前田もいる。


小橋もいる。


立河もいる。


信成もいる。


皆まだ働いていた。


門の前まで信成が送ってきた。


夕陽が工場の屋根を赤く染めていた。


「シゲ。」


「ん?」


「うち来ないか。」


重雄は笑った。


「突然だな。」


「本気だ。」


「帝商辞めてか。」


「そう。」


重雄は工場を振り返った。


天下の帝商高井。


東京本社。


人事部。


将来も約束されている。


誰もが羨む場所。


それは分かっている。


だが。


今日一日見た光景が頭から離れなかった。


花田。


前田。


小橋。


立河。


隆則。


そして信成。


皆が自分の仕事をしていた。


肩書きではなく。


役職でもなく。


仕事をしていた。


重雄は何も答えなかった。


だが帰りの新幹線で、窓の外の闇を眺めながら考えていた。


帝商高井で生きる人生。


泉町精工で生きる人生。


どちらが正しいのかは分からない。


ただ一つだけ。


信成の言葉が不思議なほど耳に残っていた。


うち来ないか。


その一言だけが。

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