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諸刃

昭和三十八年秋。


泉町精工の工場に、新しい機械が運び込まれた。


グリムゾン専用工具研削盤。


大きな木箱から姿を現した機械を見て、立河三郎は朝から落ち着かなかった。


据付作業の周りをうろつきながら煙草を吸う。


石川満は横で銘板を覗き込んでいる。


信成はメーカー技術者と話し込んでいた。


昼過ぎ。


据付が終わる。


立河は機械を見上げた。


「やっと来たか」


珍しく嬉しそうだった。


小橋が笑う。


「子供みたいだな」


「当たり前だ」


立河は即答した。


「刃物を他人に握らせんで済む」


その言葉に石川が頷く。


信成も少し笑った。


多々良正が最後まで反対した設備だった。


採算は合わない。


それでも多々良は認め、隆は判を押した。


信用を買うためだった。


だが。


機械を買えば問題が解決するほど、スパイラルベベルギヤは甘くなかった。


翌週。


最初の研磨が始まった。


メーカー技術者が説明する。


英文混じりの分厚いマニュアル。


角度。


逃げ角。


研削量。


ダイヤル目盛。


すべて理論通りだった。


信成は真面目にメモを取る。


石川もノートを広げる。


立河は腕を組んで聞いていた。


研磨完了。


グリムゾンへ装着。


試験加工。


結果はすぐに出た。


石川が測定器を覗く。


しばらくして顔を上げた。


「〇・二九です」


信成が眉をひそめる。


「そんなに出たか」


翌日。


再挑戦。


結果は〇・二二。


さらに翌日は〇・三四。


立河が煙草を灰皿に押し付けた。


「駄目だな」


小橋も首を傾げる。


「説明書通りなんだろ」


「そのはずです」


信成も困惑していた。


理論通り。


説明書通り。


だが歯当たりは安定しない。


切込み補正も増える。


工具研磨機を買ったのに、大村商会へ出していた頃より悪い結果さえ出る。


現場の空気が重くなった。


数日後。


夕方。


立河が工具を眺めながら呟いた。


「認めたくねぇが」


誰も喋らない。


「あいつら下手じゃなかった」


信成が顔を上げる。


「あいつら?」


「大村商会だ」


立河は工具の刃先を指先でなぞった。


「納期は遅ぇ」


「約束も守らねぇ」


少し黙る。


「だが腕はあった」


石川も黙って聞いていた。


「機械の説明書には書いてねぇ事を知っとった」


誰も反論できなかった。


信成は机の上のマニュアルを見る。


何百ページもある。


だが歯車は思うように削れない。


その夜。


石川は一人でノートを開いていた。


工具番号。


補正値。


歯当たり位置。


交換日。


研磨日。


びっしりと数字が並んでいる。


誰にも頼まれていない。


だが石川は書き続けていた。


何度もページをめくる。


そして一つの共通点に気付く。


翌朝。


石川は信成の机へノートを置いた。


「係長」


信成が顔を上げる。


「どうしました石川さん」


「良かった工具だけ見て下さい」


信成がページを追う。


No.12


〇・一四。


No.18


〇・〇八。


No.22


〇・一一。


No.31


〇・〇九。


しばらく見ていた信成が言う。


「近いな」


石川が頷く。


「全部です」


「良かった工具だけ、似た数字になります」


そこへ立河もやって来た。


ノートを見る。


黙る。


そして。


「そういう事か」


と言った。


信成が聞く。


「何がです」


立河は工具を手に取った。


「逃げ角だ」


「ほんの少しだけ違う」


石川はノートを見る。


信成はマニュアルを見る。


立河は刃先を見る。


見ているものは違う。


だが考えている事は同じだった。


その日の夜。


事務所の灯りが消えた後も、工具室だけは明るかった。


信成が計算用紙へ数字を書く。


石川がノートを広げる。


立河は研削盤の前に立っていた。


信成が言う。


「理論上ならこの辺です」


石川も頷く。


「過去データも近いです」


立河はしばらく考えた。


そしてダイヤルを見つめる。


「違うな」


二人が振り向く。


「少しだけだ」


立河はレバーへ手を掛けた。


「三分だけ寝かせろ」


信成の計算にはない。


石川のノートにもない。


だが立河は迷わなかった。


静かにレバーを動かす。


高い研削音が工場へ響く。


火花が飛ぶ。


誰も喋らない。


夜中まで作業は続いた。


翌朝。


眠そうな顔の三人がグリムゾンの前に立つ。


小橋も来た。


社長の隆も来た。


関も来ていた。


機械が回る。


鋼を削る音が響く。


加工終了。


石川が測定器を覗いた。


全員が待つ。


石川はしばらく動かなかった。


やがて顔を上げる。


「出ました」


信成が聞く。


「いくつだ」


「〇・〇三です」


沈黙。


立河が鼻で笑った。


「十分だ」


石川は首を振る。


「でもゼロじゃありません」


立河は初めて笑った。


「当たり前だ」


工具を手に取る。


刃先を光にかざす。


「だから面白いんだ」


信成も笑った。


石川も少しだけ笑った。


だが。


関だけは黙っていた。


測定表を見ている。


もう一度見る。


そしてもう一度見る。


隆が聞いた。


「どうした」


関は顔を上げた。


「困りましたね」


誰も意味が分からなかった。


立河が眉をひそめる。


「何がだ」


関は測定表を持ち上げた。


「この数字を出されると」


少し笑う。


「私が他の会社の工具研磨を頼みたくなります」


工場が静かになる。


信成が聞く。


「冗談ですか」


「半分は本気です」


関は立河を見る。


石川を見る。


信成を見る。


「正直に言います」


少し間を置いた。


「私は無理だと思っていました」


誰も喋らない。


「歯車屋が工具研磨までやるなど」


関は測定表を机へ置いた。


「ですが」


再び数字を見る。


「ここまで来るとは思いませんでした」


立河が鼻で笑う。


「褒めても何も出んぞ」


関も笑った。


「褒めてません」


そして続けた。


「羨ましいんです」


立河が怪訝そうな顔をする。


関は工具を指差した。


「うちの研磨職人に見せたら悔しがりますよ」


誰も喋らなかった。


だが。


その一言は何より嬉しかった。


完璧ではない。


だが確かに前へ進んだ。


信用を買うために導入した設備。


その設備は、自分たちの未熟さも突きつけた。


諸刃だった。


機械を買えば解決すると思っていた。


だが違った。


最後に必要なのは、人の手だった。


その時だった。


工場の扉が勢いよく開いた。


隆則だった。


息を切らしている。


「社長!」


全員が振り向く。


「どうした」


隆則は一枚の紙を握っていた。


普段は滅多に慌てない男が、珍しく顔色を変えている。


「タキヤです」


その言葉だけで空気が張り詰めた。


「増産です」


立河が顔をしかめる。


「どれだけだ」


「月産一万五千です」


関が思わず顔を上げた。


信成が固まる。


小橋が紙を覗き込む。


工場が静まり返った。


今の設備。


今の人員。


今の工具。


簡単にこなせる数字ではなかった。


立河は天井を見上げた。


「休ませてくれんな」


誰も反論しなかった。


石川は黙ってノートを開いた。


新しいページに日付を書く。


昭和三十八年十月十六日。


そして一行だけ記した。


『工具が足りない』


信成はその文字を見て笑った。


立河は煙草に火をつけた。


誰も何も言わない。


だが全員が同じ事を考えていた。


今度の敵は不良率ではない。


生産量だった。


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