信用
昭和三十八年。
泉町精工は変わろうとしていた。
人が増えた。
機械が増えた。
売上は毎年のように過去最高を更新していた。
伊東隆は組織を整えた。
社長は伊東隆。
製造部長は小橋伸夫。
総務兼経理部長は多々良正。
営業部営業次長は伊東隆則。
製造課長は立河三郎。
製造係長は伊東信成。
肩書きが付いた。
責任も付いた。
会社が大きくなるというのは、そういうことだった。
だが、人間はそう簡単には変わらない。
ある日の朝礼。
立河が資料を見ながら口を開いた。
「たかちゃ……」
言いかけて止まる。
少し考えて言い直した。
「営業次長」
隆則が吹き出した。
「どっちでもいいですよ」
「俺は良くねぇ」
立河は真顔だった。
「慣れん」
朝礼所に笑いが広がる。
隣で聞いていた小橋も笑った。
「そのうち慣れる」
「小橋さんも言って下さい」
「何を」
「製造部長」
小橋は顔をしかめた。
「気持ち悪い」
また笑いが起きる。
社長席の隆だけが少し満足そうだった。
会社は確実に大きくなっていた。
だが、その一方で現場には別の空気が流れ始めていた。
グリムゾン導入から一年。
工具研磨を委託している大村商会への不満が少しずつ蓄積していた。
納期が遅れる。
研磨精度が揃わない。
歯当たりも微妙に変わる。
小橋は、
「不良が出とらんのなら大丈夫だ」
と言う。
だが立河は違った。
石川も違った。
特に石川は、工具ごとの切込み補正値や歯当たり位置をノートに書き続けていた。
ある日の夕方。
石川はノートを見ながら眉をひそめた。
工具番号No.12。
前回の補正値は0.14。
今回の補正値は0.45。
同じ工具だった。
別のページを開く。
0.08。
次は0.31。
さらに別の工具。
0.11。
次は0.39。
石川はノートを閉じた。
翌朝。
立河へ見せる。
立河は黙ってページをめくった。
やがて小さく呟く。
「研ぎ過ぎだな」
「やっぱりそう思いますか」
「だから歯当たりが暴れるんだ」
立河は窓の外を見た。
グリムゾンが回っている。
「何かおかしいと思っとった」
その日の夜。
信成は一人で事務所に残っていた。
石川のノートが机の上にある。
数字を見つめる。
しばらく考えた後、受話器を取った。
「関さんですか」
『はい』
「工具研磨機の見積を下さい」
電話の向こうが静かになる。
『本気ですか』
信成は答えた。
「まだ分かりません」
「だから見積が欲しいんです」
数日後。
会議室。
信成は一枚の見積書を机の上へ置いた。
小橋が手に取る。
「何だこれは」
「工具研磨機です」
小橋は苦笑した。
「またぁ」
信成は黙っている。
「信ちゃん」
見積書を眺めながら続ける。
「勝手な事してぇ」
「まだ買ってません」
「見積取った時点で半分買っとるようなもんだ」
会議室に笑いが起きた。
だが、立河だけは笑わなかった。
資料を見ながら言う。
「買うべきだ」
全員の視線が立河へ向く。
小橋も驚いていた。
「お前が言うのか」
「言う」
即答だった。
「歯当たりが動く」
「工具が安定しとらん」
立河は見積書を指で叩いた。
「削る人間には分かる」
そして信成を見る。
「信ちゃん」
「はい」
「今回は信ちゃん、正しい」
信成は少し驚いた。
立河がここまで明確に味方するのは珍しい。
「刃物を他人に握らせるな」
その言葉だけだった。
だが重かった。
小橋は腕を組む。
「気持ちは分かる」
「でも高いぞ」
隆則も頷く。
「丈山工場の計画もありますからね」
自然と全員の視線が多々良へ向いた。
多々良は何も言わない。
見積書を閉じた。
「計算する」
それだけだった。
三日後。
再び会議が開かれた。
多々良の前には資料の束が積まれている。
数字で埋め尽くされた紙だった。
「計算した」
信成が姿勢を正す。
「どうでした」
多々良は資料を机の中央へ置いた。
「信ちゃんの負けだ」
会議室が静かになる。
立河が眉をひそめた。
「何?」
多々良は一枚ずつ資料をめくる。
「設備代」
「工具代」
「研磨費」
「借入金利」
「保守費」
さらに一枚めくる。
「全部足した」
そして結論を口にした。
「十年使っても元は取れん」
誰も喋らなかった。
信成も黙る。
計算は正しい。
数字は嘘をつかない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて隆が口を開く。
「じゃあ駄目か」
多々良は眼鏡を外した。
ハンカチでゆっくりレンズを拭く。
考え込む時の癖だった。
「そうとも言えません」
会議室の空気が変わる。
「私は計算を間違えた」
立河が顔を上げる。
「多々良さんが?」
多々良は頷く。
「納期を入れていない」
誰も喋らない。
「品質も入れていない」
静寂が続く。
「信用も入れていない」
多々良は眼鏡を掛け直した。
そして全員を見渡す。
「タキヤは何を買っとる」
誰も答えない。
「歯車か」
多々良は首を振った。
「違う」
声は静かだった。
「安心だ」
「納期通り届く安心」
「品質が揃う安心」
「泉町精工に頼めば大丈夫という安心」
小橋が腕を解く。
立河も黙って聞いている。
「それは帳簿に書けん」
多々良は資料を軽く叩いた。
「だから経理部長としては反対です」
会議室に笑いが起きた。
隆則が吹き出す。
「どっちなんですか」
多々良は真顔だった。
「反対ですよ」
「採算は合わん」
そして少し間を置く。
「ですが」
全員が次の言葉を待つ。
「信用を買う設備なら」
多々良はゆっくり言った。
「私は止めません」
静かだった。
誰もすぐには口を開かなかった。
隆が小さく笑う。
「正」
「何ですか社長」
「お前らしいな」
多々良は資料を閉じた。
「勘違いしないで下さい」
そして真顔のまま続ける。
「私は最後まで反対です」
会議室に再び笑いが広がった。
だが、その場にいた全員が分かっていた。
最後に背中を押したのは、多々良正だった。
会議が終わった。
人が去る。
信成だけが残った。
机の上の見積書を見る。
採算は合わない。
それでも買う。
信用のために。
窓の外ではグリムゾンが唸っていた。
信成は静かに頷いた。
会社はまた一歩、町工場から企業へ変わろうとしていた。




