丈山
昭和三十八年。
日本中の歯車が足りなかった。
工作機械。
電動工具。
オートバイ。
トラクター。
耕運機。
建設機械。
回るものは何でも売れた。
そして回るものには歯車が必要だった。
泉町精工にも注文が押し寄せた。
タキヤ工業。
YAMANA発動機。
若崎重工。
地崎農機。
サンダーディーゼル。
電話は鳴り続けた。
図面は積み上がった。
工場は昼も夜も動いた。
それでも足りなかった。
人が足りない。
機械が足りない。
工場が足りない。
昭和三十八年春。
伊東隆は丈山市へ向かった。
まだ田んぼしかない土地だった。
風が吹く。
麦が揺れる。
遠くで農家の煙が上がっていた。
そこが丈山工場予定地だった。
一万二千坪。
坪五百円。
隆は黙って立っていた。
戦後。
焼け跡で始めた工場は二十坪もなかった。
雨が降れば機械にシートを掛けた。
旋盤は一台。
従業員は三人。
給料が払えず頭を下げたこともある。
その男が今。
一万二千坪の土地の真ん中に立っている。
隣には多々良正。
小橋伸夫。
立河三郎。
信成。
隆則。
そしてクラウザー不動産の担当者がいた。
「広すぎます」
最初に口を開いたのは多々良だった。
「一万二千坪ですよ」
「使い切れません」
隆は田んぼを見たまま答えた。
「狭いな」
多々良が顔をしかめる。
「どこがです」
「そのうち足りなくなる」
小橋が吹き出した。
立河も笑った。
だが多々良は笑わない。
頭の中には数字しかなかった。
土地代。
建屋。
焼入れ設備。
社員寮。
野球場。
借入金。
返済計画。
全部が並んでいた。
「隆さん」
「何だ」
「借入だけで一億円を超えそうです」
誰も喋らなくなった。
「建屋」
「設備」
「寮」
「グラウンド」
「返済は十年以上です」
風だけが吹いていた。
「失敗したら終わります」
隆は笑った。
「失敗せん」
多々良は即座に聞いた。
「根拠は」
隆は前を見たまま言った。
「仕事が来とる」
それだけだった。
多々良は溜息をついた。
この男は昔からそうだった。
理屈より先に腹を決める。
そして不思議と当てる。
数日後。
丈山工場計画の会議が開かれた。
第一期工事。
建屋三千坪。
そして。
焼入れ工場。
図面の中にその文字を見つけた瞬間。
小橋の手が止まった。
指でゆっくりなぞる。
焼入れ。
何年待っただろう。
歯車を削るのは泉町精工だった。
だが最後の命を吹き込むのは他所の会社だった。
納期を待った。
歪みに泣いた。
焼きが暴れて全部やり直したこともある。
歯車を作っているのに。
最後だけ他人任せだった。
それが悔しかった。
小橋は小さく呟いた。
「ようやくだ」
立河はその顔を見て笑った。
「そんなに嬉しいか」
小橋は即答した。
「当たり前だ」
「歯車は削って終わりじゃねえ」
「焼きが入って初めて歯車だ」
立河は黙って頷いた。
現場の人間には分かる話だった。
会議が終わった後。
信成は図面を見ていた。
三千坪。
だが土地は一万二千坪。
まだ何もない場所が広がっている。
隆則が隣に立った。
「何見てる」
「土地です」
「広いな」
「ええ」
信成はしばらく黙っていた。
そして言った。
「歯車だけじゃ埋まりませんね」
隆則が笑う。
「俺もそう思う」
信成が顔を上げた。
隆則は続けた。
「客先回っとるとな」
「歯車より儲かるもんが見える」
「減速機ですか」
「そうだ」
信成は頷く。
「ギヤードモーターもです」
二人はしばらく黙った。
まだ夢物語だった。
今は目の前の注文をこなすだけで精一杯だった。
その頃。
工場ではグリムゾンが休みなく動いていた。
タキヤ工業向けスパイラルベベルギア。
月産一万個。
止めることは許されない。
だが最近。
立河の機嫌は悪かった。
工具研磨の納期が遅れ始めていた。
「まだ来んのか」
大村商会へ電話する。
「本日発送します」
翌日。
工具が三本届く。
立河は工具箱を見ながら呟いた。
「昨日無かったもんが今日来る」
「気持ち悪いな」
小橋は笑った。
「来たんだからいいだろ」
「良くねえ」
立河は吐き捨てた。
「こういうのは嫌なんだ」
工場へ戻る。
石川満は黙って工具を交換した。
そしてノートを開く。
工具番号。
交換日。
切込み補正。
歯当たり位置。
誰に言われた訳でもない。
ただ書き続けていた。
数字は嘘をつかない。
それだけは知っていた。
工具番号。
No.12。
前回。
切込み補正。
0.14。
石川は次の数字を書こうとして手を止めた。
今日。
0.45。
鉛筆が動かない。
もう一度見る。
間違いない。
0.45。
三倍以上だった。
計算ミスかと思った。
違った。
工具番号も同じ。
交換日も間違っていない。
石川は黙って前のページをめくる。
別の工具。
0.08。
次回。
0.31。
また別の工具。
0.11。
次回。
0.39。
胸の奥がざわついた。
不良は出ていない。
歯当たりも悪くない。
だが数字だけが叫んでいた。
おかしい。
翌朝。
石川は立河のところへ行った。
ノートを差し出す。
立河は黙ってページをめくった。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
顔色が変わる。
「・・・やっぱりか」
石川は何も言わない。
立河も何も言わない。
二人とも窓の外を見た。
グリムゾンは今日も動いている。
歯車は出来ている。
納品も出来ている。
だが。
その歯車を作る刃物は。
少しずつ別の顔になっていた。
立河は工具棚を見た。
整然と並ぶ工具。
会社の命だった。
だがその刃先を握っているのは泉町精工ではない。
大村商会だった。
丈山工場の図面が机の上に広がっている。
焼入れ工場。
社員寮。
野球場。
新しいボブ盤。
夢はいくらでもあった。
だが。
立河の目には。
工具番号 No.12 の数字だけが焼き付いていた。
0.14。
そして。
0.45。
その差は。
どうにも理解できなかった。




