ナパーマー
相手は、
長瀬鉄工所だった。
古いチームだった。
だが強い。
特にエース。
南方帰りの変則右腕は、
この辺りの企業野球では有名だった。
東條電機の花田が来たのは、
試合開始ギリギリだった。
「おう、社長」
「酒だけは飲ませろよ」
伊勢湾台風以降
泉町精工の電気関係は、
ずっと東條電機が見ていた。
隆が笑う。
「勝ったらな」
花田は鼻で笑う。
「負けても勝手に飲むわ」
笑いながらベンチ横へゆつくりと腰を下ろした花田が、
相手投手を見る。
体勢が崩れそうなほど、
足を高く振り上げる。
そのまま、
真上を見上げるように顔を反らす。
遅れて出てきた腕を振り、
さらに球を握ったまま、
反らした手首で最後に強烈なスナップを効かせて投げてくる。
妙なフォームだった。
だが。
球だけが、
異様に伸びる。
花田が眉をひそめる。
「あれは誰だ」
若い工員が答えた。
「南方作戦で、
手榴弾投げとったみたいですよ」
花田が煙草へ火をつける。
「おったなぁ」
「手榴弾専門の兵士が」
「恐ろしい距離を投げよる」
「しかも正確な位置にな」
マウンドを見る。
「米兵にナパーマーって呼ばれ恐れられとった」
花田が小さく笑う。
「こいつもそうかもしれんな」
「バカたれが」
試合は、
最初から重かった。
長瀬鉄工所打線は、
小橋の球を打てない。
いや。
当ててはいる。
だが前へ飛ばない。
小橋の緩いシンカーに、
タイミングを外される。
そこへ。
胸元へ食い込む、
速いシュート。
完全に打者の腰が引けていた。
三回表。
ツーダウン一塁。
長瀬鉄工所四番。
膝を軽く曲げ
左肩に自分の顎を乗せ
バットを垂直に構えた。
馬場がミットを動かす。
外。
小橋が頷く。
初球。
ふわりと沈む、
遅いシンカー。
四番のバットが泳ぐ。
ファウル。
二球目。
今度は速い。
内角へ鋭く食い込むシュート。
四番が仰け反る。
ベンチがどよめいた。
追い込まれた四番へ、
小橋はまた遅い球を使う。
シンカー。
空振り。
スリーアウトチェンジ。
一方。
三回裏。
ワンダウン。
小橋が打席へ入る。
ナパーマーは、
初球から内角へ速球を突っ込んだ。
小橋は黙って見送る。
二球目。
今度は外。
小橋はそこで、
静かにバットを短く持った。
花田が眉を上げる。
「ほう」
三球目。
真ん中低め。
小橋は引っ張らない。
鋭くセンターへ返した。
打球は、
一直線に二遊間を抜ける。
さらに伸びる。
中堅手が追いつけない。
泉町精工ベンチが沸く。
小橋は滑り込まず、
静かに二塁へ立った。
鋭い二塁打だった。
だが。
続く柴田。
空振り三振。
林。
また三振。
ナパーマーは、
二塁の小橋を一度も見なかった。
ただ黙って、
次の打者をねじ伏せた。
最終回まで、
それが唯一のチャンスだった。
石川満は、
入社直後から四番・一塁に置かれた男だった。
名門三愛商業出身。
甲子園で本塁打。
卒業後、
豊臣自動車でクリーンアップを打っていた。
だがその後、
腰を痛めた。
豊臣自動車の四番から降りた男だった。
それでも。
打席へ立つと、
空気だけは変わる。
深く腰を落とし、
静かにバットを立てる。
派手ではない。
だが。
何かやりそうな雰囲気だけは、
異様にあった。
小橋も黙って見ている。
だが。
結果は出ない。
第一打席。
空振り三振。
第二打席。
また三振。
ベンチへ戻る石川へ、
若い工員たちの視線が少し変わり始める。
「……案外普通ですね」
誰かが呟く。
小橋は何も言わない。
第三打席。
詰まらされて、
内野フライ。
ツーダウン。
石川は黙ったまま、
ベンチへ戻った。
試合は、
零対零のまま最終回へ入る。
長瀬鉄工所は、
五安打していた。
だが。
一度も二塁を踏めていない。
九回表。
小橋は一死から一塁走者は出したが
後続を難なく打ち取った。
長瀬鉄工所ベンチにも、
疲れが見え始めていた。
九回裏。
ナパーマーも、
肩で息をしている。
先頭打者。
石川。
ベンチの若い工員が呟く。
「また石川か」
花田だけは、
妙に面白そうな顔をしていた。
初球。
見逃し。
二球目。
ファウル。
ナパーマーが、
長く息を吐く。
そして三球目。
渾身だった。
石川が振り抜く。
その瞬間だった。
バコォオオオオオンッ!!
誰も聞いたことのない音がした。
乾いている。
だが重い。
腹へ響くような、
何かが破裂したような音だった。
花田が反射的にしゃがみ込む。
南方で聞いた、
爆撃の音に似ていた。
煙草が地面へ落ちる。
ベンチがどよめいた。
だが次の瞬間、
花田は自分で吹き出した。
「なんだ今のは!」
「バカたれ!」
笑いながら煙草を拾う。
打球は、
一直線に飛んでいた。
外野手が動かない。
いや。
動けなかった。
打球は、
外野フェンスを遥か上を越えていった。
誰も声を出せない。
石川だけが、
静かに走っている。
ナパーマーは、
苦笑いしながら帽子を取った。
昭和三十二年、
岸原鋳鋼戦での誠二のサヨナラ押し出しデッドボール以来。
泉町精工にとって、
実に五年ぶりのサヨナラ勝ちだった。
ベンチは歓喜した。
ただ一人。
小橋だけは、
ゆっくり外野の向こうを見ていた。




