La Luce ~光の先へ~
平成二十三年、九月。
午後六時四十五分。
那古野駅。ダブルタワービル。
クラウザーホールディングス、会長室。
窪幸一郎は、机の上の資料を閉じた。
イズミマチの福井から上がってきた報告だった。
株式の保有比率。
社員持株会の動き。
直近の業績。
経営陣、それぞれの考え。
そして、伊東征広の現在。
会長を辞めて一年。
今は、妻の店を手伝っている。
十席ほどの小さなイタリア料理店。
La luce。
窪は資料を閉じたまま、しばらく動かなかった。
必要な情報は揃っている。
TOBの勝ち筋も見えている。
その先も。
誰を残し、誰に退いてもらうか。
誰をどこに置けば、イズミマチが再び動き出すのか。
そこまで、窪の中ではほぼ出来上がっていた。
ただ、一人だけ。
自分の目で見てみたいキーパーソンがいる。
伊東征広。
窪は立ち上がった。
「倉内。今日は車はいらん」
「会長、どちらへ?」
「歩く」
それだけだった。
エレベーターで一階へ降りる。
車寄せでは、運転手が待っていた。
窪は軽く手を上げ、そのまま通り過ぎた。
夜の那古野を歩く。
歩調は一定だった。
急ぐ必要はない。
考える時間は、十分にある。
イズミマチの株は割れている。
こちらにつく株主。
タキヤ信成側に残る株主。
動かない社員持株会。
数字だけを見れば、膠着している。
だが、窪が見ているのは株だけではなかった。
会社を動かすのは、人間だ。
そして、その人間を知るうえで、福井の報告は驚くほど正確だった。
誰が誰を信頼しているか。
誰が実務を支えているか。
誰が現状に疑問を持っているか。
誰なら、新しいイズミマチを背負えるか。
福井は十五年ほど、人事にいた。
人事の人間は、社員の履歴だけを見ているわけではない。
現場で誰が本当に動いているのか。
誰が部下から信頼され、誰が数字だけを追っているのか。
そこまで見ている。
窪は、そこに感心していた。
福井が集めた情報は正確だった。
だが、それだけでは会社は変わらない。
誰を残すか。
誰を動かすか。
誰に何を任せるか。
窪は、その答えまで出していた。
路地を曲がる。
小さな看板が目に入った。
La luce。
静かな明かりが灯っている。
窪は足を止めた。
扉を開ける。
店内の空気が、わずかに動いた。
客の視線が一瞬こちらを向く。
厨房から料理の匂いが流れてくる。
ホールに立っていた男が顔を上げた。
伊東征広。
一年前まで、イズミマチの会長だった男。
今は、十席ほどの店でワインを運んでいる。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰してます」
征広は、穏やかに頭を下げた。
だが、その目は窪を見ていた。
何のために来たのか。
すぐに察したのだろう。
窪は店内を見渡した。
客の人数。
席の埋まり方。
料理の出る間隔。
厨房の動き。
ワインの扱い。
そして、征広の立ち位置。
客の会話を邪魔せず、それでいて呼ばれる前に気づく。
料理を置くタイミング。
グラスの減り。
客の表情。
何気ない動作の一つ一つに、営業を長くやってきた人間の目が残っている。
窪は思った。
――なるほど。
会社を離れて一年。
経営者の目は、まだ死んでいない。
むしろ、余計なものが取れている。
「一人です」
「こちらへどうぞ」
征広が席へ案内する。
窪は腰を下ろした。
「メニューを」
「いえ」
征広が見る。
「征広さんに任せます」
一瞬だけ、征広の目が細くなった。
「……承知しました」
厨房へ向かう。
窪は、その背中を見送った。
「光江。一番いいの、出してくれ」
厨房から、光江が顔を出す。
窪を見る。
一瞬、手が止まった。
だが、何も言わず厨房へ戻った。
窪は静かに息を吐いた。
この店は悪くない。
肩肘を張っていない。
だが、緩んでもいない。
征広はここで、ちゃんと仕事をしている。
料理が運ばれてくる。
タリアータ。
窪はナイフを入れた。
一口食べる。
「いい」
「ありがとうございます」
征広が軽く笑った。
ワインが注がれる。
窪は口に含んだ。
これもいい。
征広が選んだのだろう。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、窪が口を開いた。
「征広さん」
「はい」
「今のイズミマチを、どう見ています?」
征広の手が止まった。
「……やはり、その話ですか」
「ええ」
征広はグラスを置いた。
「いろいろと厳しいと思います」
「どこが?」
「信成兄さんは、会社を守ろうとしている」
窪は黙って聞いている。
「設備を入れる。コストを下げる。借入を返す。そうやって会社を守ろうとしている」
「ええ」
「でも、それだけでは足りません」
征広は続けた。
「売上を戻さなければ、いずれ限界が来ます」
窪は小さく頷いた。
「足らないものは営業ですか」
「そうです」
征広の声に、かつての経営者の響きが戻った。
「今のイズミマチは、何を作れるかを考えすぎている。お客様が何を欲しがっているのか。その先を見ないといけない」
窪はグラスを置いた。
「私も同じことを考えています」
征広が顔を上げた。
「減速機は、なくならないでしょう」
「ええ。動力伝達には必要です」
「ただ、同じものを作っているだけなら、いずれ頭打ちになる」
「次世代サーボの台頭ですか」
「そうです」
窪はワインを一口飲んだ。
「サーボモーターは進化しています。出力も、制御も、精度も上がっている」
征広は黙って聞いている。
「減速機に求められるものも変わる。従来品を大量に売るだけでは、いずれメーカー同士のシェア争いになる」
「……そうですね」
「だから私は、減速機の市場を取りに行くつもりはありません」
征広の目が動いた。
窪は続けた。
「イズミマチが得意な分野で、新しい市場を取りに行きます」
「新しい市場……」
「自動車です」
征広は黙った。
「ラクレスに納めているハイポイドギアがありますね」
「高性能車のリミテッドスリップデファレンシャル用です」
「ええ」
窪は淡々と話した。
「豊臣自動車から、何度もコストダウンを要求されている」
「利益は、ほとんど残りません」
「イズミマチは、あの仕事を積極的に取りに行かなかった」
「……採算が合わないからです」
「私は違う見方をしています」
窪の目が、初めて鋭くなった。
「ラクレスに採用された」
征広が黙っている。
「その事実そのものに価値があります」
窪は続けた。
「世界のプレミアムブランドに売り込むとき、イズミマチには実績がない。だが、ラクレスの高性能車に採用されていると言える」
「……」
「それが、最初の扉になります」
征広は、ゆっくりと息を吐いた。
窪の考えが見えてきた。
一社のコストダウン案件を見るのではない。
その一社に採用されたという事実を、次の市場へ持っていく。
減速機そのものを売るのではない。
精密な歯車を必要とする市場を探す。
「……ライセンスみたいなものですか」
征広が言った。
窪は少し笑った。
「そのようなものです。私はパスポートと表現していましたが」
「なるほど……」
征広は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「それなら……」
窪は待った。
「それなら、イズミマチは立て直せますね」
その言葉を聞いても、窪は表情を変えなかった。
だが、征広には分かった。
ここまで来る間に、窪は既に何度も先を考えている。
市場だけではない。
会社そのものをどう変えるか。
人間をどう配置するか。
それまで見えている。
「福井さんは、よく見ています」
窪が言った。
「福井が?」
「ええ」
征広は意外そうな顔をした。
「十五年ほど人事にいたと聞いています」
「そうですね」
「現場で誰が本当に動いているのか。誰が部下から信頼されているのか。そこまで見ている」
「……ええ」
「私は感心しました」
窪はグラスを置いた。
「福井さんは、会社を裏切ったというより、会社を見たんでしょう」
「そして、康則と私に託した」
征広の目が伏せられた。
そして、窪は言った。
「征広さん」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
征広は窪の目を見た。
「もう一度、イズミマチの社長をお願いできませんか」
征広は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに首を横に振る。
「……すみません」
「はい」
「それは、お引き受けできません」
窪は黙っている。
「私は一度、経営から離れました。もう一度、同じ場所に戻るつもりはありません」
「そうですか」
窪の返事は、それだけだった。
驚きもない。
引き止めもしない。
まるで、その答えまで想定していたかのようだった。
征広は、そのことに気づいた。
「……最初から、断ると思っていましたか?」
窪は少しだけ笑った。
「可能性は考えていました」
そして、続ける。
「では、もう一つ」
征広が顔を上げる。
「相談役をお願いできますか」
「私が?」
「はい」
窪の声は穏やかだった。
「経営には戻らなくていい。ただ、イズミマチについて、私は征広さんの意見を聞きたい」
征広は黙って窪を見た。
「だから、このTOB後にはこうします」
征広が顔を上げる。
「北沢さんには会長を任せます」
「……」
「福井さんには社長を」
征広の目が大きくなった。
「現場を一番よく知っている人間です。社長に据えるのが自然だと考えています」
「習志野専務には留任してもらいます」
「営業は、兵藤という方を本部長にするつもりです」
征広の表情が変わった。
「兵藤を?」
「市場の動きを一番肌で感じている人間です。営業を変えるなら、現場を知っている人間が必要です」
窪は迷わなかった。
「そして、康則には社外取締役になってもらう」
一拍置く。
「信成さんのご子息、信裕さんには取締役として残ってもらいます」
征広は、黙って聞いている。
「信成さんには、経営からは身を引いてもらいます」
征広の表情が曇った。
窪は続けた。
「ただし、十八パーセントの大株主です」
「……」
「株主としてのご意見は、きちんと伺います」
征広は何も言わなかった。
経営からは外す。
しかし、存在まで否定しない。
窪は人間を切り捨てているのではない。
役割を変えている。
そして、その最後に自分がいる。
恐ろしい男だと思った。
店に入ってきた時から、すでにここまで考えていた。
TOBの先。
新しい市場。
経営陣の組み替え。
信成兄さんの処遇。
自分の社長復帰。
それを断った場合の次の手まで。
しかも、その土台には、福井が集めた人間の情報がある。
一つ一つが繋がっている。
無駄がない。
隙がない。
征広は、背筋に薄い寒気を覚えた。
だが、それと同時に。
胸の奥に、別の感情が湧いていた。
久しく感じることのなかったものだった。
――これなら、イズミマチは生き残れる。
いや。
生き残るだけではない。
もう一度、伸びることができる。
征広はグラスを置いた。
少し、間を置いた。
「……分かりました」
窪は黙っている。
「相談役なら、お引き受けします」
そして、静かに付け加えた。
「ただし、私はあくまで相談役です。最終的な判断は、あなたたちがしてください」
窪は、初めて小さく笑った。
「それで結構です」
小さな店の灯りが、二人の間を静かに照らしていた。




