↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
121/124

La Luce ~光の先へ~

平成二十三年、九月。


午後六時四十五分。


那古野駅。ダブルタワービル。


クラウザーホールディングス、会長室。


窪幸一郎は、机の上の資料を閉じた。


イズミマチの福井から上がってきた報告だった。


株式の保有比率。


社員持株会の動き。


直近の業績。


経営陣、それぞれの考え。


そして、伊東征広の現在。


会長を辞めて一年。


今は、妻の店を手伝っている。


十席ほどの小さなイタリア料理店。


La luce。


窪は資料を閉じたまま、しばらく動かなかった。


必要な情報は揃っている。


TOBの勝ち筋も見えている。


その先も。


誰を残し、誰に退いてもらうか。


誰をどこに置けば、イズミマチが再び動き出すのか。


そこまで、窪の中ではほぼ出来上がっていた。


ただ、一人だけ。


自分の目で見てみたいキーパーソンがいる。


伊東征広。


窪は立ち上がった。


「倉内。今日は車はいらん」


「会長、どちらへ?」


「歩く」


それだけだった。


エレベーターで一階へ降りる。


車寄せでは、運転手が待っていた。


窪は軽く手を上げ、そのまま通り過ぎた。


夜の那古野を歩く。


歩調は一定だった。


急ぐ必要はない。


考える時間は、十分にある。


イズミマチの株は割れている。


こちらにつく株主。


タキヤ信成側に残る株主。


動かない社員持株会。


数字だけを見れば、膠着している。


だが、窪が見ているのは株だけではなかった。


会社を動かすのは、人間だ。


そして、その人間を知るうえで、福井の報告は驚くほど正確だった。


誰が誰を信頼しているか。


誰が実務を支えているか。


誰が現状に疑問を持っているか。


誰なら、新しいイズミマチを背負えるか。


福井は十五年ほど、人事にいた。


人事の人間は、社員の履歴だけを見ているわけではない。


現場で誰が本当に動いているのか。


誰が部下から信頼され、誰が数字だけを追っているのか。


そこまで見ている。


窪は、そこに感心していた。


福井が集めた情報は正確だった。


だが、それだけでは会社は変わらない。


誰を残すか。


誰を動かすか。


誰に何を任せるか。


窪は、その答えまで出していた。


路地を曲がる。


小さな看板が目に入った。


La luce。


静かな明かりが灯っている。


窪は足を止めた。


扉を開ける。


店内の空気が、わずかに動いた。


客の視線が一瞬こちらを向く。


厨房から料理の匂いが流れてくる。


ホールに立っていた男が顔を上げた。


伊東征広。


一年前まで、イズミマチの会長だった男。


今は、十席ほどの店でワインを運んでいる。


「お久しぶりです」


「ご無沙汰してます」


征広は、穏やかに頭を下げた。


だが、その目は窪を見ていた。


何のために来たのか。


すぐに察したのだろう。


窪は店内を見渡した。


客の人数。


席の埋まり方。


料理の出る間隔。


厨房の動き。


ワインの扱い。


そして、征広の立ち位置。


客の会話を邪魔せず、それでいて呼ばれる前に気づく。


料理を置くタイミング。


グラスの減り。


客の表情。


何気ない動作の一つ一つに、営業を長くやってきた人間の目が残っている。


窪は思った。


――なるほど。


会社を離れて一年。


経営者の目は、まだ死んでいない。


むしろ、余計なものが取れている。


「一人です」


「こちらへどうぞ」


征広が席へ案内する。


窪は腰を下ろした。


「メニューを」


「いえ」


征広が見る。


「征広さんに任せます」


一瞬だけ、征広の目が細くなった。


「……承知しました」


厨房へ向かう。


窪は、その背中を見送った。


「光江。一番いいの、出してくれ」


厨房から、光江が顔を出す。


窪を見る。


一瞬、手が止まった。


だが、何も言わず厨房へ戻った。


窪は静かに息を吐いた。


この店は悪くない。


肩肘を張っていない。


だが、緩んでもいない。


征広はここで、ちゃんと仕事をしている。


料理が運ばれてくる。


タリアータ。


窪はナイフを入れた。


一口食べる。


「いい」


「ありがとうございます」


征広が軽く笑った。


ワインが注がれる。


窪は口に含んだ。


これもいい。


征広が選んだのだろう。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


やがて、窪が口を開いた。


「征広さん」


「はい」


「今のイズミマチを、どう見ています?」


征広の手が止まった。


「……やはり、その話ですか」


「ええ」


征広はグラスを置いた。


「いろいろと厳しいと思います」


「どこが?」


「信成兄さんは、会社を守ろうとしている」


窪は黙って聞いている。


「設備を入れる。コストを下げる。借入を返す。そうやって会社を守ろうとしている」


「ええ」


「でも、それだけでは足りません」


征広は続けた。


「売上を戻さなければ、いずれ限界が来ます」


窪は小さく頷いた。


「足らないものは営業ですか」


「そうです」


征広の声に、かつての経営者の響きが戻った。


「今のイズミマチは、何を作れるかを考えすぎている。お客様が何を欲しがっているのか。その先を見ないといけない」


窪はグラスを置いた。


「私も同じことを考えています」


征広が顔を上げた。


「減速機は、なくならないでしょう」


「ええ。動力伝達には必要です」


「ただ、同じものを作っているだけなら、いずれ頭打ちになる」


「次世代サーボの台頭ですか」


「そうです」


窪はワインを一口飲んだ。


「サーボモーターは進化しています。出力も、制御も、精度も上がっている」


征広は黙って聞いている。


「減速機に求められるものも変わる。従来品を大量に売るだけでは、いずれメーカー同士のシェア争いになる」


「……そうですね」


「だから私は、減速機の市場を取りに行くつもりはありません」


征広の目が動いた。


窪は続けた。


「イズミマチが得意な分野で、新しい市場を取りに行きます」


「新しい市場……」


「自動車です」


征広は黙った。


「ラクレスに納めているハイポイドギアがありますね」


「高性能車のリミテッドスリップデファレンシャル用です」


「ええ」


窪は淡々と話した。


「豊臣自動車から、何度もコストダウンを要求されている」


「利益は、ほとんど残りません」


「イズミマチは、あの仕事を積極的に取りに行かなかった」


「……採算が合わないからです」


「私は違う見方をしています」


窪の目が、初めて鋭くなった。


「ラクレスに採用された」


征広が黙っている。


「その事実そのものに価値があります」


窪は続けた。


「世界のプレミアムブランドに売り込むとき、イズミマチには実績がない。だが、ラクレスの高性能車に採用されていると言える」


「……」


「それが、最初の扉になります」


征広は、ゆっくりと息を吐いた。


窪の考えが見えてきた。


一社のコストダウン案件を見るのではない。


その一社に採用されたという事実を、次の市場へ持っていく。


減速機そのものを売るのではない。


精密な歯車を必要とする市場を探す。


「……ライセンスみたいなものですか」


征広が言った。


窪は少し笑った。


「そのようなものです。私はパスポートと表現していましたが」


「なるほど……」


征広は、しばらく黙った。


そして、静かに言った。


「それなら……」


窪は待った。


「それなら、イズミマチは立て直せますね」


その言葉を聞いても、窪は表情を変えなかった。


だが、征広には分かった。


ここまで来る間に、窪は既に何度も先を考えている。


市場だけではない。


会社そのものをどう変えるか。


人間をどう配置するか。


それまで見えている。


「福井さんは、よく見ています」


窪が言った。


「福井が?」


「ええ」


征広は意外そうな顔をした。


「十五年ほど人事にいたと聞いています」


「そうですね」


「現場で誰が本当に動いているのか。誰が部下から信頼されているのか。そこまで見ている」


「……ええ」


「私は感心しました」


窪はグラスを置いた。


「福井さんは、会社を裏切ったというより、会社を見たんでしょう」


「そして、康則と私に託した」


征広の目が伏せられた。


そして、窪は言った。


「征広さん」


「はい」


「一つ、お願いがあります」


征広は窪の目を見た。


「もう一度、イズミマチの社長をお願いできませんか」


征広は、すぐには答えなかった。


やがて、静かに首を横に振る。


「……すみません」


「はい」


「それは、お引き受けできません」


窪は黙っている。


「私は一度、経営から離れました。もう一度、同じ場所に戻るつもりはありません」


「そうですか」


窪の返事は、それだけだった。


驚きもない。


引き止めもしない。


まるで、その答えまで想定していたかのようだった。


征広は、そのことに気づいた。


「……最初から、断ると思っていましたか?」


窪は少しだけ笑った。


「可能性は考えていました」


そして、続ける。


「では、もう一つ」


征広が顔を上げる。


「相談役をお願いできますか」


「私が?」


「はい」


窪の声は穏やかだった。


「経営には戻らなくていい。ただ、イズミマチについて、私は征広さんの意見を聞きたい」


征広は黙って窪を見た。


「だから、このTOB後にはこうします」


征広が顔を上げる。


「北沢さんには会長を任せます」


「……」


「福井さんには社長を」


征広の目が大きくなった。


「現場を一番よく知っている人間です。社長に据えるのが自然だと考えています」


「習志野専務には留任してもらいます」


「営業は、兵藤という方を本部長にするつもりです」


征広の表情が変わった。


「兵藤を?」


「市場の動きを一番肌で感じている人間です。営業を変えるなら、現場を知っている人間が必要です」


窪は迷わなかった。


「そして、康則には社外取締役になってもらう」


一拍置く。


「信成さんのご子息、信裕さんには取締役として残ってもらいます」


征広は、黙って聞いている。


「信成さんには、経営からは身を引いてもらいます」


征広の表情が曇った。


窪は続けた。


「ただし、十八パーセントの大株主です」


「……」


「株主としてのご意見は、きちんと伺います」


征広は何も言わなかった。


経営からは外す。


しかし、存在まで否定しない。


窪は人間を切り捨てているのではない。


役割を変えている。


そして、その最後に自分がいる。


恐ろしい男だと思った。


店に入ってきた時から、すでにここまで考えていた。


TOBの先。


新しい市場。


経営陣の組み替え。


信成兄さんの処遇。


自分の社長復帰。


それを断った場合の次の手まで。


しかも、その土台には、福井が集めた人間の情報がある。


一つ一つが繋がっている。


無駄がない。


隙がない。


征広は、背筋に薄い寒気を覚えた。


だが、それと同時に。


胸の奥に、別の感情が湧いていた。


久しく感じることのなかったものだった。


――これなら、イズミマチは生き残れる。


いや。


生き残るだけではない。


もう一度、伸びることができる。


征広はグラスを置いた。


少し、間を置いた。


「……分かりました」


窪は黙っている。


「相談役なら、お引き受けします」


そして、静かに付け加えた。


「ただし、私はあくまで相談役です。最終的な判断は、あなたたちがしてください」


窪は、初めて小さく笑った。


「それで結構です」


小さな店の灯りが、二人の間を静かに照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。