イタリアンレストラン 「La luce」
平成二十三年、九月。
那古野駅から少し歩いたところに、小さなイタリア料理店がある。
店の名は、La luce。
十席ほどの、こぢんまりとした店だった。
カジュアル過ぎない。
かといって、肩肘張るような店でもない。
料理とワインを、静かに楽しめる店だった。
店を始めたのは、征広の妻、光江と、その妹だった。
二人とも料理が好きだった。
いつか自分たちの店を持ちたい。
それが姉妹の夢だった。
征広は、その夢を応援した。
ただし、経営には口を出さなかった。
金を出して、店を大きくしようともしなかった。
二人の店だからだ。
開店してから、征広は週に一度か二度、客として店を訪れた。
料理を食べる。
ワインを飲む。
そして、きちんと金を払う。
それが征広なりの応援だった。
会社では、いつも数字と向き合っていた。
人と話す時も、どこか緊張感があった。
だが、この店ではよく笑った。
光江は、そんな征広を見るのが好きだった。
平成二十二年五月。
妹が病気になった。
子宮癌。
ステージ四だった。
光江は、一人で店を切り盛りするようになった。
征広は、それまでと同じように客として店へ来た。
週に一度か二度。
料理を食べ、酒を飲む。
閉店後には、黙って皿を洗った。
グラスを拭いた。
それ以上のことはしなかった。
治療は七か月続いた。
だが、良くならなかった。
十二月。
妹は亡くなった。
五十八歳だった。
店は閉めた。
葬儀が終わっても、すぐには再開できなかった。
四十九日が過ぎるまで。
光江は、店に戻らなかった。
平成二十三年二月。
四十九日の翌日。
光江は、久しぶりに店の鍵を開けた。
照明を点ける。
静かな店内。
テーブル。
椅子。
グラス。
皿。
どれも、妹と一緒に選んだものだった。
厨房に立つ。
ここにも、妹の痕跡が残っている。
光江は、しばらく動けなかった。
店を畳む。
七割。
続ける。
三割。
頭の中では、もう答えが出ていた。
「……どうしよう」
その時だった。
入口のドアが開いた。
「光江」
振り返る。
征広だった。
征広は店内を見た。
そして、光江の顔を見る。
何も聞かなかった。
ただ、
「そうか」
と言った。
征広はカウンターから布巾を取った。
皿を洗い始めた。
グラスを拭いた。
テーブルを片付けた。
黙々と。
その日から、少しずつ店を手伝うようになった。
皿を下げる。
料理を運ぶ。
客を迎える。
会計をする。
長年、営業の世界にいた男だ。
人と接することには慣れていた。
料理については、光江に教わった。
ワインもそうだった。
料理には、どのワインが合うのか。
どこの産地なのか。
葡萄品種は何か。
今飲むべきなのか。
少し寝かせた方がいいのか。
征広は覚えていった。
「こちらの料理でしたら、少し軽めの赤が合います」
「じゃあ、それを」
「かしこまりました」
以前は、数字を追って客と話していた。
今は、料理とワインを見て客と話している。
不思議なものだった。
征広は、この仕事が嫌いではなかった。
むしろ、心地よかった。
La luceは、もう三人の店ではない。
光江と征広。
二人の店になった。
九月。
征広がイズミマチの会長を辞任してから、ちょうど一年ほどが経っていた。
店内には、静かな時間が流れている。
光江が厨房に立つ。
征広はホールにいる。
料理を運ぶ。
皿を下げる。
グラスを拭く。
ワインを選ぶ。
時には、客の前でデキャンタージュまでしてみせる。
もう、すっかり店員だった。
その夜。
午後七時。
入口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
征広が顔を上げた。
男が一人、入ってきた。
背が高い。
濃紺のジャケット。
白いシャツ。
派手なものは何も身につけていない。
それなのに。
目が行った。
男が一歩、店内に入る。
その瞬間。
空気が、ほんのわずかに変わった。
客の一人が顔を上げる。
もう一人も、何気なく男を見る。
男は店内を見回した。
席。
厨房。
カウンター。
客。
スタッフ。
ほんの数秒だった。
だが、まるで店全体を把握したような視線だった。
征広は、その男を知っている。
クラウザーとイズミマチには、以前から深い付き合いがあった。
賀詞交換会。
業界の会合。
そうした場所で、何度も顔を合わせている。
挨拶もした。
酒を片手に談笑したこともある。
だから、顔を見間違えることはない。
窪幸一郎。
五十一歳。
征広より十歳若い。
だが。
征広は、ほんの一瞬だけ背筋を伸ばした。
会社にいた頃。
数え切れないほどの経営者を見てきた。
肩書きだけ立派な人間もいた。
声が大きいだけの人間もいた。
威圧することで、自分を大きく見せようとする人間もいた。
窪は違う。
声を張らない。
威圧もしない。
自分を大きく見せようともしない。
ただ、そこにいる。
それだけで、人の視線を集める。
その男が持つ圧力は、声でも肩書きでもなかった。
積み上げてきたもの。
判断力。
胆力。
そして、自分が何をすべきかを知っている人間だけが持つ、静かな迫力だった。
窪が征広を見る。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰してます」
短い挨拶だった。
昔と何も変わらない。
だが。
征広には一つだけ分からないことがあった。
なぜ。
この店に来たのか。
窪は、一人だった。
車もない。
秘書もいない。
この男なら、店に来るだけでも何か意味がある。
そう思わせるものがあった。
「一人です」
「はい。こちらへどうぞ」
征広が席を案内する。
窪は静かに腰を下ろした。
その動作にも、無駄がない。
「メニュー、お持ちします」
「いえ」
窪はメニューを手に取らなかった。
征広を見る。
「征広さんに、お任せします」
征広の目が、わずかに細くなった。
「……承知しました」
征広は厨房へ向かった。
その背中を、窪は静かに見ていた。
「光江」
「何?」
「一番いいの、出してくれ」
光江が厨房から顔を出した。
そして、窪を見る。
「……誰?」
征広は振り返った。
「窪さん」
「窪さん?」
光江がもう一度、窪を見る。
窪は、穏やかに微笑んだ。
その笑顔に威圧感はない。
むしろ、感じがいい。
それでも。
光江は、なぜか背筋を伸ばした。
征広は、それを見て少しだけ笑った。
この男は。
どこへ行っても、こうなのだ。
*
料理が始まった。
ワインが開く。
窪はグラスを手に取り、香りを確かめた。
一口飲む。
「……いいですね」
「ありがとうございます」
征広が答える。
しばらく、二人は何も話さなかった。
店内には、料理の音だけが響いている。
やがて窪が口を開いた。
「征広さん」
「はい」
「最近は、こちらで?」
「ええ。まあ、そんなところです」
征広は笑った。
「会社を辞めてから、こういう生活です」
「そうですか」
窪は、それ以上聞かなかった。
ただ、ワインを一口飲んだ。
その横顔を見ながら、征広は思った。
この男は。
何かを決めている。
まだ、それが何なのかは分からない。
だが。
窪幸一郎が、何の用もなくここまで歩いてくることはない。
征広は料理を運び、ワインを注ぐ。
二人の間に、仕事の話はまだ出なかった。
厨房では、光江が料理を作っている。
しばらくして、光江がホールへ顔を出し征広を呼んだ。
「征広、この料理――」
光江は窪を見た。
一瞬、言葉が止まった。
手にしていた調理器具が、わずかに震えた。
それでも光江は、そのまま皿へ料理を盛る。
タリアータ。
薄く切った牛肉の上に、パルミジャーノ・レッジャーノを添える。
光江の手が、またわずかに震えた。
征広は、それを見ていた。
「大丈夫。光江のタリアータなら間違いないよ。僕が保証する」
「……うん」
光江は小さく頷いた。
皿が、窪の前に置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
窪は、静かにナイフを入れた。
征広は、その横に立っていた。
自分も、まだ少し緊張している。
光江も、きっと同じだ。
ただ一人。
窪だけが、いつもと変わらない顔で料理を味わっていた。
La luceの夜は、まだ始まったばかりだった。




