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死角と離反

平成二十三年。


那古野駅。


ダブルタワービル。


その高層階に、クラウザーホールディングスのオフィスがあった。


会長室。


窓の向こうに、那古野の街並みが広がっている。


康則は、イズミマチの株主総会から戻ったばかりだった。


机の上には、総会で可決された再建案が置かれている。


タキヤからの資金支援。


それを原資とした設備投資。


そして、徹底したコスト削減。


康則は資料を閉じた。


向かいのソファには、窪幸一郎が座っている。


「窪会長」


「どう思いますか」


窪はすぐには答えなかった。


机の上の資料を手に取り、何度かページをめくる。


やがて、一枚の資料を指で叩いた。


「これは……再建案じゃないな」


康則が顔を上げる。


「やはり、そう思いますか」


「延命策。正確には、再建するための時間を買う案だ」


「時間……」


「タキヤから金を入れる」


窪が指を折る。


「設備を更新する」


もう一本。


「コストを削る」


三本目の指が立つ。


「一見すれば、合理的だ」


康則は黙って聞いていた。


「だが」


窪は資料を置いた。


「売上をどう戻す?」


康則の目が動く。


「……」


「サーボの発達で減速機市場そのものが縮んでいる。イズミマチの主力事業は苦しい。そこへ設備投資をして、生産効率を上げる」


窪は淡々と続ける。


「何を作る?」


康則は答えなかった。


「売れなければ、設備はただの固定費だ」


「……はい」


「コスト削減も同じだ」


窪は椅子にもたれた。


「人件費や経費を削れば、一時的には赤字幅を抑えられる」


「でも、それだけでは……」


「そういうことだ」


康則は資料へ目を落とした。


「売上が戻らなければ、いずれ限界が来る」


「その通り」


窪は静かに頷いた。


「しかも、タキヤへの返済がある」


「……」


「タキヤから金を借りる」


窪が言う。


「設備を買う」


康則が続ける。


「売上が戻らない」


「返済が始まる」


窪は康則を見た。


「そのとき、イズミマチはどうする?」


康則は答えなかった。


窪は窓の外へ視線を移した。


「タキヤに依存するしかなくなる」


「……」


「そして、タキヤが手を引いた瞬間」


窪は一拍置いた。


「終わる」


社長室に沈黙が落ちた。


康則が呟く。


「信成さんは、本当にこれで再建できると思っているんでしょうか」


窪は少し考えた。


「思っているというより……」


そして、静かに言った。


「そう信じるしかないんだろう」


康則が顔を上げる。


「どういう意味です?」


「彼にとって、イズミマチを他人に渡すことは、会社を失うことと同じなんだ」


「だから、クラウザーの提案を拒んだ」


「そうだ」


窪は再び資料へ目を落とした。


「だが、会社は感情では待ってくれない」


康則は黙っていた。


窪は言った。


「イズミマチの死角は、そこだ」




その夜。


クラウザー本社、社長室。


康則は一人だった。


窪の言葉が頭から離れない。


――これは再建案じゃない。


――再建するための時間を買う案だ。


康則は窓際に立った。


「イズミマチを…… 守ってくれ……」


父、隆則の最後の言葉が浮かんでくる。


「……このままでは、イズミマチがなくなる」


誰に言うでもなく、呟いた。


信成は、会社を外へ渡さないことで守ろうとしている。


自分は、会社そのものを残すために変えようとしている。


康則は拳を握った。


「……救える可能性があるなら、救いたい」


たとえ。


「それが、自分にとって一番難しい道でも」


そこへ鈴置が入ってきた。


「社長」


「鈴置さん」


「はい」


康則は振り返った。


「クラウザーとして、もう一度イズミマチに話をします」


鈴置の表情が曇る。


「ですが……株主総会では、完全に否決されました」


「分かっています」


「相談役は、かなり強硬です」


「それも分かっています」


康則は窓の外を見る。


「話し合いで駄目なら……」


一度、言葉を切った。


「それ以外の方法を考える」


鈴置は黙った。


康則は振り返る。


「イズミマチを潰させるわけにはいかない」


その目には、もう迷いがなかった。




同じ頃。


丈山市。


イズミマチ本社。


常務室。


福井は一人、机の上に広げられた資料を見つめていた。


タキヤからの資金。


設備投資。


コスト削減。


数字だけを見れば、再建策として成立している。


だが。


その数字の先にあるものが見えない。


「……売上を、どうする」


福井は小さく呟いた。


答えはなかった。


株主総会で、信成が示した道。


北沢社長も、習志野専務も、それに従っている。


いや。


従うしかない。


福井には、それが分かっていた。


信成は相談役という肩書きになっても、伊東家の中心にいる。


創業者・伊東隆から続く会社。


その歴史そのものを背負っている。


北沢も、習志野も、簡単には逆らえない。


もちろん、福井自身もそうだった。


これまで、信成の判断に異を唱えたことはない。


だが。


今回ばかりは違った。


福井は椅子に深く座った。


株主総会での光景が蘇る。


康則が信裕へ投げかけた言葉。


――信裕君、これでいいのか?


――こんな再建案が、上手くいくと思うんか?


あの言葉は、福井にも刺さっていた。


福井は資料へ目を落とした。


「……これで、いいのか」


「差し支え…… だらけだ。」


答えは出なかった。


ただ。


一つだけ分かっていることがある。


このままでは、いずれまた資金が必要になる。


そのとき、どうする。


またタキヤに頼むのか。


さらに借りるのか。


そして。


それでも売上が戻らなかったら。


福井は目を閉じた。


「……会社がなくなる」


その言葉だけは、頭から離れなかった。




数日後。


夕方。


イズミマチ本社。


福井は、誰もいない常務室で電話を手に取った。


しばらく番号を見つめる。


迷っている。


それでも。


指が動いた。


「……伊東社長をお願いします」


電話の向こうから返事があった。


福井は目を閉じた。


もう後戻りはできない。




翌日。


那古野市堀川区


クラウザー本社の応接室。


康則が一人で待っていた。


扉が開く。


「失礼します」


福井だった。


康則が立ち上がる。


「福井さん……」


「突然、申し訳ありません」


「いえ」


二人は向かい合って座った。


しばらく、どちらも口を開かなかった。


やがて福井が言った。


「私は、イズミマチの人間です」


「はい」


「これまで、信成さん、いや相談役の判断に従ってきました」


康則は黙って聞いている。


「北沢社長も、習志野専務も……おそらく相談役には逆らえません」


福井は視線を落とした。


「私も同じです」


少し間があった。


「ですが……」


福井は顔を上げた。


「会社がなくなってしまえば、何の意味もありません」


康則の表情が変わった。


福井は、ゆっくり頭を下げた。


「伊東社長……」


声が震えていた。


「イズミマチを、助けてください」


康則はすぐには答えなかった。


福井の顔を見つめている。


やがて尋ねた。


「福井さん」


「はい」


「イズミマチの中で、他にも同じことを考えている人間は?」


福井は少しだけ迷った。


「……います」


康則は頷いた。


「分かりました」


そして、はっきりと言った。


「福井さん」


「はい」


「イズミマチを救いましょう」


二人の視線が重なった。


その瞬間。


クラウザーとイズミマチの争いは、単なる会社同士の対立ではなくなった。


イズミマチの内側にも、立ち上がる人間が現れた。


それは会社を裏切るためではない。


会社を残すためだった。


そして。


この日から、イズミマチの運命は大きく動き始める。

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