決裂の株主総会
平成二十三年。
クラウザー本社。
社長室の机に、イズミマチの財務資料が広げられていた。
売上は落ちている。
赤字は膨らみ、資金繰りにも余裕がない。
このまま何も変わらなければ、いずれ資金が尽きる。
康則は、資料の一枚に目を落としたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに電話を取る。
「……北沢社長をお願いします」
しばらくして、北沢が電話に出た。
「北沢です」
「ご無沙汰しております。クラウザーの伊東です」
「クラウザーの伊東康則社長ですか。こちらこそ、お久しぶりです」
康則は、すぐには本題に入らなかった。
「少し、お話ししたいことがあります」
「何でしょう」
「イズミマチについてです」
電話の向こうで、わずかに沈黙があった。
「……イズミマチ?」
「クラウザーとして、イズミマチとの資本関係を含めた提案をしたいと思っています」
北沢は黙った。
やがて、慎重な声が返ってくる。
「……分かりました」
「聞いていただけますか」
「私だけで判断することはできません」
「承知しています」
「伊東家代表として、筆頭株主の相談役に話を通します」
「お願いします」
北沢は一度、言葉を切った。
「ただし――」
「はい」
「相談役が、素直に聞くとは思えません」
康則は、静かに答えた。
「それでも、話す価値はあります」
「……分かりました」
電話を切る。
北沢はしばらく受話器を見つめていた。
そして、相談役・伊東信成のもとへ向かった。
イズミマチ本社。
応接室には、五人が向かい合っていた。
イズミマチ側は、代表取締役社長・北沢、福井常務、そして相談役・伊東信成。
対するクラウザー側は、社長・伊東康則と鈴置常務。
テーブルの上には、クラウザーが用意した提案資料が置かれている。
誰も、すぐには手を伸ばさなかった。
やがて康則が口を開く。
「イズミマチの現状について、クラウザーとして提案があります」
鈴置が資料を配る。
「クラウザーによる資本参加を前提に、イズミマチの財務体質を立て直します」
信成は資料を手に取った。
一枚。
二枚。
紙をめくる音だけが、部屋に響いた。
「イズミマチ単独での再建には、時間がかかります」
康則が続ける。
「クラウザーなら、資金、人材、設備投資まで含めて支援できます。今なら、まだ間に合う」
信成の手が止まった。
「必要ない」
短い言葉だった。
康則が顔を上げる。
「……何ですって?」
「イズミマチは、イズミマチで再建する」
「現状をご存じのはずです。売上は落ち、赤字は続いている。このままでは――」
「このままでは、何だ」
信成が初めて康則を見る。
「クラウザーに助けてもらわなければ、イズミマチは潰れる。そう言いたいのか」
「潰さないために、提案しています」
「提案?」
信成は資料をテーブルへ置いた。
「クラウザーの傘下に入れ、という話だろう」
「資本参加です。経営を支配することが目的ではありません」
「言葉を飾るな」
信成の声が低くなる。
「株を握れば、経営に口を出す。口を出せば、いずれ会社を握る。違うか」
康則は一拍置いた。
「違います」
「なら、なぜクラウザーがそこまでイズミマチに手を出す」
「伊東家の会社だからです」
その言葉に、信成の目が鋭くなった。
「伊東家の会社?」
「はい」
「お前がクラウザーの社長になったからといって、イズミマチまでお前の会社になったわけじゃない」
「そんなつもりで言っているんじゃありません」
「つもりの話をしているんじゃない」
信成は身を乗り出した。
「結果の話をしている」
康則の表情も硬くなった。
「では、叔父さん、いや信成さんは何をするつもりですか。反対するだけで、会社が立て直せるんですか」
部屋の空気が凍った。
北沢が息を詰める。
福井は黙って二人を見ていた。
信成は、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、康則を見る。
「偉くなったもんだな」
「……」
「クラウザーの社長になって、数字を並べて、正しいことを言っているつもりか」
「正しいかどうかは、数字が示します」
「数字だけで会社が救えるなら、イズミマチはとっくに立ち直っている」
康則の声が低くなる。
「感情で経営を続ければ、会社そのものがなくなります」
「感情?」
信成が笑った。
だが、その笑みには温度がなかった。
「伊東家の会社を守ろうとすることが、感情か」
「守るために、変える必要があると言っているんです」
「クラウザーに売り渡すことが、変えることか」
「売り渡すなんて言っていません」
「同じことだ」
信成は資料を閉じた。
「だからこそ、俺は反対だ」
康則は信成を見据えた。
「最初から、聞くつもりがなかったんですね」
「聞いた」
「結論は変わらない」
「変わらん」
信成は即答した。
そして、淡々と言った。
「ただし、この話を俺一人で決めるつもりもない」
北沢が顔を上げる。
「株主総会で決めよう」
康則は黙った。
「株主に判断してもらえばいい」
信成は康則から目を逸らさない。
「俺は反対だ。それは絶対に変わらん」
そして、一語ずつ言った。
「だが、会社の将来を決めるのは俺一人じゃない」
康則の指が、膝の上でゆっくり握られた。
――株主総会。
二人の間に、見えない楔が打ち込まれた。
数週間後。
イズミマチ定時株主総会。
会場には、株主、取締役、関係者が集まっていた。
議長席には北沢。
その隣には、相談役の信成が座っている。
康則は会場前方の席から、壇上を見つめていた。
信成と目が合う。
どちらも、先に視線を逸らさなかった。
議案が進み、ついにクラウザーからの提案が議題となった。
北沢が説明する。
「クラウザーから、イズミマチへの資本参加を含む提案がありました」
会場がざわつく。
康則は静かに前を見ていた。
質疑が始まる。
「クラウザーの傘下に入るということですか」
北沢が答える。
「正確には、クラウザーからの資本参加を受け、経営面でも支援を受ける案です」
「それは、経営権を渡すことになりませんか」
会場の視線が康則へ集まる。
康則が立ち上がった。
「イズミマチは今、大きな転換点にあります。クラウザーとして、イズミマチを救うために――」
「議長」
信成が手を挙げた。
康則の言葉が止まる。
信成が立ち上がった。
「私は反対です」
会場が静まり返る。
「イズミマチは伊東家が創業した会社です。苦しいからといって、すぐに他社へ経営を委ねるべきではありません」
康則は信成を見た。
「相談役」
「何だ」
「会社を残すための提案です」
「会社を残す?」
信成が遮る。
「名前だけ残して、経営を他社に預ける。それを会社を残すと言うのか」
「経営を預けるとは言っていません」
「応接室でも同じことを言っていたな」
信成の声が会場に響く。
「だが、俺は信用しない」
康則の目に怒りが浮かんだ。
「信用の問題ではありません。イズミマチに、今、何が必要かです」
「必要なのは、伊東家の覚悟だ」
「覚悟だけで赤字は消えません」
会場の空気が張り詰める。
北沢が慌てて口を挟んだ。
「お二人とも、発言は簡潔に――」
信成は康則から目を離さなかった。
「苦しいからといって、外から金を入れればいい。そんな経営なら、誰にでもできる」
「では、信成さんには何ができるんですか」
康則の問いに、信成は答えなかった。
やがて採決に入る。
結果は――。
クラウザー案、否決。
会場から、小さなどよめきが起こった。
康則は目を閉じた。
鈴置が小声で言う。
「……否決です」
康則は答えなかった。
信成は静かに議長へ目を向けた。
「では、次の議案を」
北沢が手元の資料を確認する。
そして顔を上げた。
「次の議案は、イズミマチ再建に関する業務提携および資金調達についてです」
康則の眉が動いた。
信成は動かない。
「タキヤとの業務提携、ならびに資金支援を受けるための議案です」
「……タキヤ?」
康則が信成を見る。
信成は、初めて口元をわずかに緩めた。
「そうだ」
「最初から……この案を?」
「当然だ」
信成は淡々と答えた。
「クラウザー案がどうなるかに関係なく、イズミマチには再建策が必要だからな」
北沢が説明する。
「タキヤから資金支援を受け、設備投資と徹底したコスト削減を行います。イズミマチ単独で再建するための時間を稼ぐ計画です」
福井は黙って資料を見つめていた。
康則が立ち上がる。
「待ってください」
信成が康則へ顔を向ける。
「何だ」
「それは、クラウザー案よりもイズミマチにとって本当に良い案なんですか?」
「当然だ」
「タキヤから資金を受ければ、その分だけタキヤへの依存度が高くなる」
「会社を残すためだ」
「返済できなければ?」
信成の表情から、わずかに笑みが消えた。
「返済できる会社にする」
「根拠は?」
「俺がやる」
「それは根拠になっていません」
「お前の提案も同じだ」
信成の声が鋭くなる。
「クラウザーなら救える。そう言っているだけだろう」
「少なくとも、数字と計画があります」
「数字と計画で、伊東家の会社を売るのか」
「売るんじゃない。生かすんです」
「黙れ」
信成の一喝が、会場を震わせた。
康則は一歩も引かなかった。
「黙りません。イズミマチが潰れるまで、意地を張り続けるつもりですか」
信成の目が険しくなる。
「意地ではない」
「では、何です」
「責任だ」
二人の視線がぶつかった。
そのとき――。
康則は、信成の隣に座る信裕へ視線を向けた。
「信裕君」
信裕が顔を上げる。
康則は、まっすぐ信裕を見た。
「信裕君、これでいいのか?」
信裕の表情が固まる。
「こんな再建案が、上手くいくと思うんか?」
信裕は答えられなかった。
父・信成を見る。
信成は何も言わない。
再び康則を見る。
それでも、言葉が出てこない。
会場は静まり返っていた。
その言葉は、隣に座る福井にも刺さっていた。
福井は黙って、手元の資料へ目を落とす。
――これで、いいのか。
だが、福井にも答えは出なかった。
北沢が静かに口を開く。
「それでは、採決に移ります」
株主による投票が始まった。
クラウザー側の株主は反対。
康則も反対票を投じた。
しかし――。
「本議案は、原案どおり可決されました」
会場に拍手が起こった。
信成は静かに席へ戻る。
康則は、その姿を見つめていた。
やがて、低い声で言う。
「……これで、イズミマチを救ったつもりですか」
信成は振り返った。
「少なくとも、お前に渡すよりはましだ」
康則の表情が凍った。
「……」
鈴置が小声で呼びかける。
「社長……」
康則は立ち上がった。
「……行きましょう、鈴置さん」
二人は会場を出ていった。
福井は、その背中を黙って見つめていた。
やがて、会場のざわめきに紛れるように、視線を落とす。
その表情からは、何を考えているのか分からなかった。
一方、廊下へ出た康則は、足を止めた。
「……タキヤか」
握った拳が、わずかに震える。
会場の扉を振り返る。
――イズミマチを救うために来た。
だが、救うどころか。
信成は、康則とは別の道を選んだ。
その道がイズミマチを救うのか。
それとも――。
さらに深い危機へ導くのか。
二人の対立は、もう後戻りできないところまで来ていた。




