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思惑の交点

平成二十三年、春。


那古野駅ダブルタワービル。


クラウザーホールディングス本社。


最上階にある会長室で、伊東康則は窪幸一郎と向かい合っていた。


窪は、黙って康則の話を聞いていた。


「……イズミマチを、クラウザーグループに入れたいと思っています」


康則が言った。


窪はすぐには答えなかった。


やがて、静かに口を開く。


「理由は?」


「親父の最後の頼みです」


康則の声が少しだけ低くなる。


「イズミマチを守ってくれ、と言われました」


窪は康則を見つめた。


「……お前の親父さんらしいな」


しばらく沈黙が続いた。


「伊東」


「はい」


「お前の個人的な気持ちだけなら、却下だ」


康則は黙って頷いた。


「だが……」


窪が少し笑った。


「お前の勘は、俺をいつも驚かせる」


そして、机の上の資料を閉じた。


「調べよう」


「……はい」


「イズミマチの財務状況だけじゃない。技術、顧客、市場、将来性。クラウザーが買う意味があるのか、徹底的に調べろ」


「はい」


「ホールディングスとして判断する」


康則は深く頭を下げた。


     


一週間後。


同じ会長室。


窪の前に二つの資料が置かれていた。


一つはクラウザーホールディングスの調査結果。


もう一つは、取引銀行であるFUJ銀行の評価資料だった。


窪は最初の資料を開いた。


「……BB」


次に、銀行の資料を見る。


「CCCか」


康則が頷く。


「財務は、かなり厳しいです」


「有利子負債は?」


康則が数字を答える。


窪はしばらく考えた。


そして、ふっと笑った。


「この程度なら……クラウザーなら苦もなく払える」


康則が顔を上げる。


「では……」


「まだだ」


窪は資料を閉じた。


「財務だけで会社を買う馬鹿はいない」


そして別の資料を手に取った。


「問題は、イズミマチに何が残っているかだ」


     


技術調査資料。


そこには、イズミマチが長年培ってきた歯車技術が並んでいた。


産業用ミシン。


工作機械。


そして――


自動車。


「ラクレス……」


窪が呟く。


資料には、豊臣自動車の高級ブランド、ラクレスのLSDに採用されているハイポイドギヤの文字があった。


月産二千セット。


康則が説明する。


「ラクレスの静寂性、耐久性、信頼性は世界最高峰です。そのLSDにイズミマチのハイポイドギヤが使われています」


窪は資料を見つめたまま、何も言わない。


「だったら、なぜ自動車を伸ばさなかった?」


「豊臣自動車からのコストダウン要求が、何度もあったようです」


「なるほど」


「技術的には評価されていた。でも、利益がほとんど残らない」


康則は続けた。


「だからイズミマチは、自動車メーカーとの関係を深めることを避けてきた」


窪は静かに頷いた。


「……分かる」


そして、資料を机に置いた。


「それも、前社長、伊東征広さんの判断だったんだろうな」


     


窪は椅子にもたれた。


「バブルが崩壊した頃、日本の歯車メーカーは中国製品と価格で競争することになった」


康則は黙って聞いている。


「中国に勝てないなら、価格競争から降りるしかない」


窪は続けた。


「だから征広さんは、歯車から減速機へ軸足を移した」


「はい」


「正しい」


窪は即答した。


「少なくとも、あの時代にはな」


康則が顔を上げる。


「征広さんは会社を守ったんだ」


その言葉に、康則は黙って頷いた。


窪はさらに資料をめくる。


「だが……」


ページをめくる手が止まった。


「時代は変わった」


     


窪の頭の中には、クラウザーの歴史が浮かんでいた。


クラウザーの原点は、ミシンとタイプライターだった。


自分たちでミシンを作る。


タイプライターを作る。


そのために必要な機械がなければ、自分たちで作る。


それが、クラウザーの工作機械事業の始まりだった。


やがて工作機械を作るための精密加工技術が蓄積される。


その技術がクラウザー精密へと受け継がれた。


一方で、タイプライターから発展した事務機器事業は、プリンター、FAXへと広がっていった。


ミシン。


タイプライター。


工作機械。


プリンター。


FAX。


クラウザーは、一見するとまったく違う事業を手掛けている。


だが、その根には一つの思想があった。


「自分たちが必要とするものは、自分たちで作る」


窪は、その歴史を誰よりも理解していた。


そして今――


そのクラウザーの中に、イズミマチの歯車技術を組み込もうとしている。


     


「伊東」


「はい」


窪が顔を上げた。


「お前は、イズミマチの主力を減速機だと思っているか?」


「……今までは、そういう認識でした」


「俺は違う」


窪は言った。


「歯車だ」


康則が目を見開く。


「歯車には、裾野がある」


窪は指を折る。


「プリンターの樹脂ギヤ」


「自動車」


「船舶」


「重機」


「産業機械」


そして、


「ラクレスのLSD」


窪は笑った。


「減速機より、はるかに広い」


康則は黙って聞いていた。


「しかも、ラクレスで実績がある」


窪の目が鋭くなる。


「世界最高峰のプレミアムカーで使われているという実績は、それだけで価値がある」


そして、静かに言った。


「ラクレスの静寂性、耐久性、信頼性は世界最高峰だ」


一拍。


「そこに採用された歯車なら――」


窪は資料を指で叩いた。


「世界中のプレミアムメーカーに売り込むためのパスポートになる」


康則の表情が変わった。


窪はさらに続けた。


「それだけじゃない」


「はい」


「クラウザー精密は、豊臣自動車、ヤマナ発動機にも部品を納めている」


康則は頷く。


「そしてクラウザー大連を通じて、中国の常熟市にある自動車メーカーの生産拠点とも取引がある」


窪は企業名を挙げていく。


「ジャグラー」


「カウデイ」


「ワルクスフォーゲン」


「ランジレーバー」


康則の目が大きくなる。


「……そこに、イズミマチの歯車を?」


「そうだ」


窪は笑った。


「イズミマチ単独なら、関係を作るところから始めなきゃならない」


「でもクラウザーには、すでに入口がある」


「その通りだ」


技術がある。


市場がある。


顧客へのルートもある。


そして――


資金がある。


窪は椅子に深く座った。


「伊東」


「はい」


「これは救済じゃない」


康則が黙る。


「クラウザーがイズミマチを助ける話でもない」


窪は、はっきりと言った。


「使える技術を持った会社を、使える市場へ連れていく話だ」


康則の胸に、父・隆則の最後の言葉が蘇った。


――イズミマチを守ってくれ。


窪は資料を閉じた。


そして――


「ふふっ」


小さく笑った。


「さすが伊東」


康則を見る。


「これは、ビジネスとして面白くなりそうではある」


康則も、わずかに笑った。


窪は最後の一言を告げた。


「クラウザーホールディングスとして――GOだ」


     


創業者・窪慎太郎。


天才技術者でありながら、商才にも長け、一代でクラウザーを巨大企業へと成長させた男。


その窪慎太郎の再来と呼ばれる男――


窪幸一郎。


技術を見る目だけではない。


市場を読み、時代の変化を読み、その先にある未来を見る。


その先見の明は、やはりただ者ではなかった。


そして――


その窪に見出された男がいる。


伊東康則。


まだ四十歳。


クラウザーの社長となったばかりの男。


だが窪は、康則の中にあるものを見抜いていた。


市場を読む嗅覚。


そして――


自分が信じたものを、最後まで追い続ける力。


窪幸一郎が伊東康則を見出したことも、また偶然ではなかった。


一人は、クラウザーの未来を見ていた。


もう一人は、父との約束を果たそうとしていた。


その二つの思惑が――


この日、初めて交わった。


思惑の交点。


それはやがて、イズミマチという一つの会社の運命を、大きく変えていくことになる。

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