“ONE クラウザー”
平成二十三年。
二月。
クラウザー本社。
役員会議室。
突然の招集だった。
何の議題なのか。
役員たちには、知らされていなかった。
やがて全員が席につく。
扉が開いた。
入ってきたのは、社長・窪幸一郎だった。
いつもの鋭い目。
だが――今日は、どこか違っていた。
窪は席につくと、役員たちを一度見渡した。
そして、短く言った。
「俺は、本日をもってクラウザーの社長を辞める」
会議室が凍りついた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
「……社長、それは本気ですか」
ようやく、一人が口を開いた。
「本気だ」
窪は淡々と答えた。
「理由は、一身上の都合でいい」
「しかし……」
「説明は、この後する」
窪は立ち上がった。
ホワイトボードの前に立つ。
そして、マーカーを手に取った。
大きく文字を書いた。
――ONE クラウザー。
役員たちが顔を見合わせる。
窪は振り返った。
「これから、クラウザーホールディングスを設立する」
誰も口を挟まない。
「クラウザー本体だけじゃない」
窪は、次々と数字を挙げていった。
「クラウザー。一万二千人」
「クラウザー精密。三千六百人」
「クラウザー不動産。三百五十人」
「クラウザー観光。六百二十人」
「クラウザー保険。百十人」
「蔵宇座有限公司。九千五百人」
「クラウザーベトナム。四百五十人」
「クラウザーUSA。三千六百人」
窪はホワイトボードを叩いた。
「これだけの人間が、別々の会社で動いている」
そして――
「これを、一つにする」
役員たちの表情が変わった。
「ONE クラウザーだ」
窪は続けた。
「ホールディングスの下に、各社を置く」
「意思決定を速くする」
「資本を効率よく回す」
「人材も技術も、会社の壁を越えて使う」
一人の役員が口を開いた。
「では……社長は?」
「俺じゃない」
窪は答えた。
「俺はホールディングスの会長になる」
会議室に、どよめきが広がった。
「社長を辞めて、会長に?」
「ああ」
窪は笑った。
「社長の椅子に座ったままだと、本体のことに時間を取られる」
「俺が見たいのは、クラウザー一社じゃない」
窪は役員たちを見渡した。
「グループ全部だ」
「そのための体制だ」
*
その日の午後。
フィリピン。
新工場の建設予定地。
測量の杭が打たれ、基礎工事の準備が進められていた。
康則は、現地スタッフと図面を確認していた。
「ここから材料置き場」
図面を指差す。
「加工ラインはこちら。出荷は港に近い方へ」
「はい」
「自動倉庫はこっち」
「分かりました」
ベトナムで築いた仕組みを、さらに進化させる。
康則の頭の中には、すでに工場が完成した姿が見えていた。
そのとき――
携帯電話が鳴った。
日本からだった。
「はい、伊東です」
受話器の向こうから、窪の声が聞こえた。
「伊東。日本へ戻れ」
康則は眉をひそめた。
「……今ですか?」
「今だ」
「工場の着工が始まったところですが」
「分かっている」
短い沈黙。
「だが、戻れ」
康則は少し考えた。
「何かあったんですか」
「帰ってから話す」
電話は、それで切れた。
康則は受話器を見つめた。
そして、現地スタッフに向き直った。
「悪い。俺、日本へ帰る」
「……急ですか?」
「急だ」
康則は図面を閉じた。
「工事は止めなくていい。このまま進めてくれ」
「分かりました」
康則は、着工したばかりの土地を一度見渡した。
そして――日本へ向かった。
*
クラウザー本社。
会長室になる予定の部屋。
窪が康則を待っていた。
「呼べばすぐに戻ってくるな」
「急げ、と言われたので」
康則は椅子に座った。
「何の話ですか」
窪は単刀直入に言った。
「お前を、クラウザーの社長にする」
康則の手が止まった。
「……社長?」
「ああ」
「窪さんは?」
「ホールディングスの会長だ」
窪は淡々と答えた。
「さっき決めた」
康則は黙った。
「ただし――」
窪が続ける。
「代表権は付けない」
康則が顔を上げた。
「代表権なし、の社長だ」
「……」
「文句あるか」
康則は少し考えた。
そして首を横に振った。
「ありません」
「そうか」
窪は満足そうに頷いた。
「お前には、現場を動かせ」
「グループ全体の構想は、俺が見る」
「役割を分けるんだ」
康則は静かに聞いていた。
「フィリピンは?」
「後任を付ける」
「お前は日本にいろ」
「分かりました」
会話は、それだけで終わった。
*
夜。
ホテル。
康則は、窓の外を眺めていた。
代表権なしの社長。
窪の意図は分かっていた。
自分を使いやすい位置に置く。
信頼している。
だが――完全には手放さない。
最終的な決定権は、ホールディングスに残す。
いかにも、窪らしいやり方だった。
康則は小さく笑った。
「……窪さんらしいな」
だが――
康則にも、考えていることがあった。
二か月前。
病院で握った、父・隆則の手。
隆則の声。
――イズミマチを守ってくれ。
康則は目を閉じた。
今の自分はクラウザーの常務。
イズミマチに直接関わる立場ではない。
だが――
社長になれば、立場は変わる。
社内外での発言力も。
情報も。
人脈も。
そして、クラウザーという巨大な会社を背負う肩書きも。
康則は窓に映った自分の顔を見た。
「……親父」
小さく呟く。
「一歩、近づいたよ」
*
数日後。
クラウザーホールディングス設立の記者会見。
壇上には、窪と康則が並んでいた。
カメラのフラッシュが絶え間なく光る。
窪がマイクを握る。
「これより、クラウザーグループは一つになる」
記者たちが一斉にペンを走らせる。
「ONE クラウザーだ」
フラッシュが焚かれる。
「各事業会社は、ホールディングスの下で連携し、成長する」
「私は会長として、グループ全体を統括する」
そして――
窪は隣に立つ康則へ手を向けた。
「クラウザーの新しい社長は――」
一瞬、間を置く。
「伊東康則です」
会場がどよめいた。
四十歳。
観光会社から本社へ入り、大連、ベトナム、そしてフィリピンと海外を駆け回ってきた男。
その男が――
今、クラウザー本体の社長になった。
会見が終わった後。
二人だけになったところで、窪が言った。
「お前は現場を動かせ」
「はい」
「俺は上から見る」
「分かりました」
窪は康則の肩を軽く叩いた。
「期待しているぞ」
「ありがとうございます」
二人は、それぞれの思惑を胸に、その場を後にした。
窪は――
クラウザーグループを、一つの意思で動かすための体制を手に入れた。
康則は――
父との約束を果たすための、新しい立場を手に入れた。
同じ人事。
同じ会社。
同じ船に乗った二人。
だが――
その目的は、まだ交差していなかった。




