危篤
平成二十二年。
十二月。
フィリピン。
クラウザーの新工場建設予定地。
康則は、現地に滞在していた。
ベトナム・ハイフォン工場に続く、クラウザーの新たな海外拠点。
建設予定地には、すでに測量が入り、工場の配置を示す杭が打たれていた。
康則は工程設計者たちと図面を広げていた。
「ここも、ベトナム工場と同じ考え方でいきましょう」
康則が図面を指差す。
「材料が入って、加工して、検査して、完成品が出ていく。人間が余計な距離を歩かないようにする」
工程設計者が頷いた。
「自動倉庫も入れますか?」
「入れる」
康則は即答した。
「できるところは全部やろう」
「分かりました」
康則は図面を覗き込む。
「ベトナムでやったことを、ここでもう一段進めたい。最初から自動化を前提に設計するんだ」
「はい」
そのときだった。
ポケットの携帯電話が鳴った。
日本からだった。
康則は画面を見た。
嫌な予感がした。
「……すみません」
その場を離れ、電話に出る。
「はい、伊東です」
電話の向こうから、切迫した声が聞こえた。
康則の顔から、血の気が引いていく。
「……親父が?」
黙って聞く。
「……」
「脈が弱い?」
康則の声が小さくなる。
「……もう、何日ももたない可能性があります」
胸の奥が、ズシンと沈んだ。
「すぐ帰ってください」
「……分かりました」
電話を切った。
康則は、その場に立ったまま動かなかった。
さっきまで見ていた工場の図面が、ぼやけて見えた。
親父。
あの親父が。
康則は唇を噛んだ。
やがて、ゆっくりと工程設計者たちのところへ戻った。
「悪い」
全員が康則を見る。
「俺、日本へ帰る。父親が危ない」
「……分かりました」
「工場は、このまま進めてくれ」
康則は図面を見た。
「俺がいなくても進むように、ここまで作ってきたんだ」
一度、言葉を切る。
「……頼んだぞ」
「はい」
康則はそれだけを言い残し、現地を後にした。
*
二日後。
日本。
病院。
隆則の病状は、一進一退を繰り返していた。
危篤の連絡から二日。
康則は、ようやく病室へ入った。
「……親父」
隆則は、ベッドに横たわっていた。
意識はあった。
目も開いている。
話すこともできる。
けれど――。
康則は、入口に立ったまま動けなかった。
最後に会ったのは、お盆だった。
そのときも、親父は痩せていた。
それでも、まだ笑っていた。
まだ飯も食っていた。
まだ、いつもの親父だった。
だが今、目の前にいる隆則は――。
あまりにも小さくなっていた。
頬はこけている。
腕も細い。
顔色も悪い。
布団の中にある身体が、まるで別人のようだった。
康則の胸が締め付けられた。
「……親父」
声が震えた。
隆則が、ゆっくりと顔を向ける。
そして――
かすかに笑った。
「フィリピンから……帰ってきたのか、康則」
その声を聞いた瞬間。
康則は、もう駄目だった。
涙が溢れた。
「……ああ」
顔を背ける。
「俺のことなんて……ほっときゃいいのに」
「何言ってんだよ……」
康則はベッドの横に座った。
「親父が危ないって聞いて、ほっとけるわけないだろ」
隆則が笑う。
「忙しいんだろ?」
「そんなの関係ない」
「クラウザーの仕事……」
「いいんだよ、そんなの」
康則は隆則の手を握った。
驚くほど細かった。
昔は、あれほど大きく見えた手だった。
子供の頃。
何度この手に引かれただろう。
何度この背中を追いかけただろう。
その手が――
今は、康則の手の中にすっぽり収まっている。
「親父……」
康則は涙を拭った。
「キツかったら、話さなくていいから」
隆則は、しばらく康則を見つめていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「お前は……俺の誇りだよ」
康則の目から、涙が落ちた。
「……何言ってんだよ」
「あのクラウザーの……取締役になったんだからな」
「今は……」
康則は泣きながら笑った。
「今はアジア担当の常務取締役だよ」
隆則の目が、少しだけ大きくなった。
「そうか……」
そして、嬉しそうに笑った。
「常務になったか……」
「うん」
「……夢のようだ」
隆則は目を閉じた。
「俺の息子が……クラウザーの常務か」
康則は、もう顔を上げられなかった。
「親父……」
そのとき。
隆則が咳き込んだ。
「ゴホッ……ゴホ、ゴホッ……」
「親父!」
康則が身体を支える。
「無理すんなって」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃないだろ」
「……大丈夫だ」
「横になれよ」
康則がゆっくり身体を寝かせる。
隆則は苦しそうに息を整えた。
しばらくして――。
隆則が康則の手を探した。
康則が握る。
「ここにいるよ」
隆則の指が、康則の手を弱々しく握り返した。
「康則……」
「ん?」
「お願いがある」
康則は父の顔を見た。
「なんだよ。なんでも言ってくれよ」
隆則は何度か息を吸った。
「イズミマチが……」
康則の表情が変わった。
「イズミマチが……今、あかんらしい」
「……」
「信成も……征広も……何にも言ってこん」
隆則は苦しそうに息をする。
「けどな……新聞の株価を見たら……」
一度、言葉が止まった。
「……ひでぇもんだ」
「親父……」
「イズミマチ……」
隆則の呼吸が乱れる。
「ゴホッ……ゴホン……」
「親父!」
康則が背中をさする。
「もういいって!」
隆則は首を横に振った。
「聞いてくれ……」
「いいよ。聞くから」
隆則は康則を見た。
その目には、父親としての最後の力が残っていた。
「イズミマチを……」
康則は黙って聞いていた。
「守ってくれ……」
康則の息が止まった。
「……親父」
「イズミマチを……助けてやってくれ」
康則の目から、涙が次々と落ちた。
「親父……」
隆則は苦しそうに息を吸った。
「イズミ……」
「親父、もういい!」
康則は泣きながら父の身体を支えた。
「分かったから!」
隆則の身体から、力が抜けていく。
「もう言わなくていいから……」
康則は必死に背中をさすった。
「分かったよ……俺がやるから……」
隆則の目が、かすかに開いた。
康則は父の顔を見つめた。
「イズミマチは……俺が守る」
隆則の唇が、ほんの少し動いた。
「……康則」
「ここにいるよ」
「……頼む」
「分かった」
康則は父の手を強く握った。
「俺に任せろ。だから……もう心配すんな」
隆則の目が、ゆっくりと閉じていく。
「親父……?」
返事はない。
「親父……」
康則は父の手を握ったまま、何度も呼びかけた。
「俺、やるから……」
涙が止まらない。
「親父が守ってきたイズミマチ……」
声が震える。
「俺が守るから……」
康則は父の手を両手で包んだ。
「安心してくれよ……」
病室には、康則の嗚咽だけが響いていた。
クラウザーの常務取締役。
アジア事業を任される男。
世界的な不況の中でも成長を続ける会社の経営者。
その男が――
この瞬間だけは、ただの息子だった。
そして父が最後に託したものは、あまりにも大きく、あまりにも重かった。
康則は、いつまでも父の手を握っていた。




