裏腹
平成二十二年。
春。
リードマンショックから一年半。
イズミマチの傷は、いまだ癒える気配を見せなかった。
総売上は、ピーク時の半分を大きく下回っている。
二期連続で、三十億円規模の最終赤字が見込まれていた。
数字だけを見れば――
「よくここまで抑えた」
そう言えなくもない。
だが。
実態は、もっと重かった。
FLXの受注は激減していた。
中国の商社倉庫には、出荷されない減速機が大量に積み上がっている。
売れることを前提に仕入れた在庫。
好況時には、
「すぐ納品できます」
という言葉が、顧客を獲得する武器だった。
しかし今は、その在庫が重くのしかかっていた。
売れる目処の立たない減速機。
大半が、不良在庫になりつつある。
在庫が動かなければ、キャッシュは生まれない。
キャッシュが生まれなければ、借入に頼るしかない。
有利子負債は、増え続けていた。
赤字そのものよりも――
資金繰りが会社の首を絞め始めていた。
株価も暴落していた。
二年間で三分の一。
市況に少しでも悪い材料が出れば、容赦なく売り注文が殺到する。
ストップ安。
また、ストップ安。
市場のイズミマチに対する評価は、日に日に厳しくなっていた。
経営陣は、まず固定費の削減に着手した。
役員報酬を五割カット。
そして二年をかけ、約三百人の人員削減を進める。
希望退職を募り、自然減も合わせながら組織をスリムにしていく。
それでも――
資金繰りの悪化は止まらなかった。
そこで決断したのが、資産の売却だった。
知多郡阿久比町。
将来の新工場建設用地として購入していた、約八千坪の土地。
そして――
那古野市堀川区。
かつてイズミマチ本社があった土地に建てた、賃貸マンション。
この二つを売却し、借入を圧縮する。
工場用地は、会社がさらに成長することを前提に購入したものだった。
マンションも、旧本社跡地という大切な資産だった。
それを今――
会社を生き残らせるために、手放そうとしていた。
春の株主総会。
会場には、重苦しい空気が漂っていた。
壇上には、北沢社長をはじめ取締役が並んでいる。
ただ一人。
取締役営業本部長――伊東信裕の姿がなかった。
「伊東さんは?」
株主の一人が声を上げた。
北沢が答える。
「伊東信裕は、体調不良のため本日は欠席しております」
会場がざわついた。
営業本部を率いる信裕までが欠席している。
それだけで、会社の置かれている状況の深刻さが伝わった。
やがて、株主から厳しい声が飛び始める。
「二期連続三十億の赤字ですよ!」
「いつになったら回復するんですか!」
「株価は二年間で三分の一じゃないですか!」
「役員報酬を半分に下げて、三百人も減らして、それでも足りないんですか!」
「工場用地まで売るんですか! 成長するために買った土地でしょう!」
北沢は、じっと聞いていた。
言い訳ならいくらでもあった。
リードマンショック。
中国市場の減速。
設備投資の急減。
商社在庫の膨張。
ビルトインサーボの台頭。
イズミマチだけではどうにもできない要因はいくつもあった。
だが――
社長である以上、結果が全てである。言い逃れしたところで何も変わらない。
北沢は、固定費削減と資産売却案について説明した。
役員報酬の五割カット。
二年で約三百人の人員削減。
阿久比町の八千坪と、旧本社跡地の賃貸マンションの売却。
「在庫が動かず、有利子負債が増え続けています。このままでは資金繰りが持ちません。会社を存続させることが、今は最優先です」
会場が静かになった。
そして――
一部株主から、北沢社長の解任決議案が提出された。
「経営責任を明確にすべきだ!」
怒号が飛ぶ。
北沢は、壇上でじっと前を見ていた。
その隣には、会長・伊東征広が座っている。
征広は何も言わなかった。
ただ、一度だけ北沢を見た。
やがて採決が行われた。
「本議案は――否決されました」
会場に、ざわめきが広がった。
北沢は、深く息を吐いた。
かろうじて、社長の座は守られた。
だが――
これは勝利ではなかった。
*
株主総会終了後。
会長室。
北沢が深く頭を下げていた。
「……申し訳ありません」
征広は窓の外を見ていた。
「何がだ」
「会社を、こんな状況にしてしまって……」
征広が振り返る。
「北沢。君一人のせいじゃないよ」
「ですが、社長は私です」
「そうだ」
征広は静かに答えた。
「だからこそ、君には社長を続けてもらう」
北沢が顔を上げる。
「会長……」
「私が責任を取る」
「……え?」
征広は、机の上に置かれた一枚の紙を見た。
「私は社長を七年やった」
「……」
「会社が良い時だけ自分の手柄にして、悪くなったら後任に責任を押し付ける。そんなことは、私にはできん」
北沢は黙って征広を見た。
「今回の経営危機も、私が社長だった時代からの結果だ」
征広は、ゆっくり息を吐いた。
「北沢。君だけに背負わせるつもりはない」
「しかし……」
「君は社長を続けてくれ」
征広は北沢を真っ直ぐ見た。
「私が引くよ」
北沢の目が見開かれた。
「会長……」
「イズミマチを頼む」
征広は、それだけを言った。
*
こうして――
伊東征広は、イズミマチの会長を辞任した。
会社の業績悪化。
株価の低迷。
経営の責任。
そのすべてを自ら引き受けて。
北沢を、最後まで庇った。
イズミマチは、かろうじて経営を続けていた。
しかし――
その未来は、まだ見えなかった。
*
一方――
クラウザー本社。
社長室。
窪幸一郎の机には、完成したベトナム工場の資料が広げられていた。
その隣には、常務取締役・伊東康則。
窪は工場の写真を眺めながら、唸った。
「しかし……少々、金はかかったな」
「すみません」
康則が笑う。
「いや」
窪は首を振った。
「俺が最初に考えていたものの三倍……いや、五倍は凄いものになった」
ベトナム・ハイフォン。
ベトナム政府が進める工業地帯への企業誘致に、クラウザーはいち早く乗った。
その工場づくりを任されたのが康則だった。
クラウザーの工程設計者。
傘下のクラウザー精密のライン設計者。
そして搬送機メーカー。
グループ内外の技術者を巻き込み、自動倉庫、ピッキングロボット、自動搬送、自動化ライン、検査装置まで組み込んだ。
単なる海外生産工場ではない。
最初から――
世界に見せることのできる工場を目指した。
「場所もいいですよ」
康則が地図を指差す。
「海まで近い。土地も安い。それにハノイまですぐです」
「ハイフォン港も近い」
「はい。輸出にも国内配送にも都合がいい」
窪は頷いた。
「立地まで考えていたか」
「工場は建物だけじゃありませんから。物流まで含めて工場です」
窪は笑った。
「たいした常務だよ、お前は」
そして、もう一度資料に目を落とした。
「日本国内や大連で作るより、原価は?」
「三割ほど下がりました」
康則が答える。
窪の眉が上がる。
「三割か」
「はい」
「しかも……品質は上だろう」
「そう思っています」
康則は頷いた。
「これで、うちのプリンターは売れます」
その言葉通りだった。
クラウザープリンターは、ベトナム国内だけではなく、中国国内でも飛ぶように売れた。
さらに大きかったのが、北京五輪だった。
Nappleとクラウザーは共同で、北京五輪のオフィシャルコンピュータ、オフィシャルプリンターとなっていた。
世界中から注目を集める大会。
そこでクラウザーの名前が大量に露出した。
その宣伝効果は、想像以上だった。
窪は報告書を閉じた。
「……売れたな」
「はい」
康則が答える。
窪は満足そうに笑った。
「やっぱり、そうなると思ったんだ」
ベトナムという立地。
低コストの生産体制。
最新鋭の自動化。
そして北京五輪。
すべてが一本につながった。
世界的な不況の中でも――
クラウザーは成長を続けていた。
株価は、上場来最高値を更新していた。
窪が地図を広げる。
「次はフィリピンだ」
康則が顔を上げる。
「はい」
「ベトナムの次の足場を作る。お前に任せる」
「分かりました」
康則は頷いた。
*
その裏側で――
イズミマチは、深いトンネルの中にいた。
同じ不況。
同じアジア市場。
それなのに――
二つの会社の景色は、まるで違っていた。
康則は、ふと窓の外を見た。
頭に浮かんだのは、父・隆則の顔だった。
しばらく黙っていた。
そして――
「……親父、大丈夫かな」
窪は何も言わなかった。
ただ、静かに康則を見た。
クラウザーが伸びれば伸びるほど。
康則の胸には、別の思いが重くなっていた。
イズミマチ。
自分の父が長年見てきた会社。
そして、自分の故郷でもある会社。
片や、成長。
片や、衰退。
片や、上場来最高値。
片や、売れる目処のつかない在庫と、増え続ける借入。
片や、海外へ工場を広げる。
片や、未来のために買った土地を売る。
同じ世界で起きた、同じ不況。
それなのに――
二つの会社の運命は、あまりにも違っていた。




