リードマンショック
平成二十年。
九月。
朝。
イズミマチ本社。
始業前の社員食堂。
テレビのニュースに、社員たちの視線が集まっていた。
「……リードマン・ブラザーズが破綻?」
誰かが呟いた。
アメリカの大手証券会社の破綻。
そのニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡っていた。
営業部。
芝はパソコンに表示された株価を見ていた。
「……なんや、これ」
隣から川島が覗き込む。
「株、ですか?」
「ああ」
画面には、急落するイズミマチの株価。
芝はしばらく眺めていた。
「なんでや……」
「何がです?」
芝が画面を指差す。
「なんで、無茶苦茶高利で住宅ローン借りてたアメリカ人の尻拭いを、俺らがせなあかんのや」
川島が苦笑した。
「俺ら、住宅ローンなんか関係ないですよね」
「そうや。減速機売ってるだけなのに」
「ほんとそうですね」
向かいで兵藤が聞いていた。
「まあ、そう言うな」
「兵藤、お前どう思う?」
「俺に聞くな。課長だからって世界経済まで分かるか」
三人とも黙った。
テレビでは、世界各国の株価が下落していることを伝えていた。
兵藤が立ち上がる。
「仕事しよう」
「そうやな」
芝もパソコンへ向き直った。
しかし――。
その日の営業部には、いつもとは違う電話が相次いだ。
「はい、イズミマチ営業部です」
芝が受話器を取る。
「……はい。設備投資の延期ですか? 分かりました。またお願いします」
受話器を置く。
すぐに、また電話が鳴る。
「はい、イズミマチです」
今度は別の客先だった。
「……はい。……分かりました」
受話器を置く。
兵藤が見る。
「またか?」
「設備投資、来期に延期」
「そうか」
しばらくすると、川島が資料を抱えてやってきた。
「兵藤さん」
「ん?」
「ちょっと……」
川島が資料を机に置く。
「FLX、二ヶ月先まで注文どころか、内示もありません」
兵藤の表情が変わった。
「二ヶ月?」
「はい」
芝も振り返る。
「この前まで、あんなに注文入っとったやん」
「それが……半年先までの長期計画も確認したんですが、全部、未定です」
兵藤が資料を手に取る。
「……全部?」
「はい」
営業部に沈黙が落ちた。
芝が椅子から立ち上がり、資料を覗き込む。
確定。
内示。
予定。
その欄が、軒並み「未定」になっている。
芝が呟いた。
「注文がないだけやないな」
兵藤が頷く。
「未来の注文が消えとる」
その日の午後。
経営会議。
信裕、三尾、習志野らが資料を囲んでいた。
北沢も腕を組んでいる。
「FLXが、かなり落ちています」
担当者が報告する。
「どれくらいだ?」
「現時点で、前年同期比で大幅な減少です」
「受注型は?」
北沢が聞く。
「こちらは、二割から三割程度の減少に留まっています」
信裕が顔を上げた。
「二割、三割か」
「はい」
北沢も資料を見る。
「なら、設備投資全体が完全に止まったわけではないな」
「そう考えられます」
信裕が頷く。
「FLXは商社在庫の影響が大きいんだろう」
北沢が見る。
「中国の商社がかなり在庫を持っていましたからね。好景気の時に、すぐ納品できるように仕入れていた。それが今、動かなくなっている」
信裕は資料を指で叩いた。
「在庫調整だ」
北沢が頷く。
「受注型が二割、三割残っているということは、設備そのものが不要になったわけではない」
「FLXだけが、商社の在庫調整をまともに受けている」
信裕も頷いた。
「商品力そのものが落ちたわけじゃない。在庫さえ捌ければ、また元に戻る」
誰も反論しなかった。
しかし――。
営業の現場では、別の異変も起き始めていた。
芝と兵藤は、客先から戻る車の中にいた。
「兵藤」
「ん?」
「最近、客先で妙な話を聞かんか?」
「妙な話?」
「減速機を使わんサーボ」
兵藤は黙った。
「……ビルトインのやつか」
「そう。増えたな」
「やっぱり?」
「ああ」
芝はハンドルを握りながら言った。
「ただの不況だけじゃない気がする」
兵藤は答えなかった。
二人とも、まだ確信はなかった。
金融市場の異変。
設備投資の抑制。
商社在庫の積み上がり。
そして、サーボ技術の進歩。
いくつもの変化が、静かに重なり始めていた。
その頃。
中国の商社倉庫では――。
棚に並んだFLXが、出荷されることなく積み上がっていた。
一台。
また一台。
その数は、日を追うごとに増えていった。
売れることを信じて仕入れた減速機。
「すぐ欲しい」という中国市場に応えるための在庫。
それが今――動かない。
イズミマチ本社。
信裕は、FLXの増産計画を見直し始めていた。
「一時的なものだ」
自分に言い聞かせるように、資料を閉じる。
受注型が残っている。
商品力は落ちていない。
在庫が動けば、また戻る。
そう信じようとしていた。
だが――。
営業部の電話は、その日も鳴り止まなかった。
「設備投資の延期で……」
「来期に繰り延べで……」
「とりあえず様子を見ます……」
受話器の向こうから届く言葉は、どれも同じだった。
世界の危機は、既にイズミマチの足元から侵食し始めていた。




