北京五輪
平成二十年。
八月。
北京五輪が開催されていた。
中国は沸いていた。
道路、港湾、工場。
北京五輪を目前にして進められてきたインフラ整備と設備投資は、中国全土の製造業を大きく押し上げていた。
イズミマチも、その波に乗っていた。
特にFLXシリーズは好調だった。
標準化された減速機本体。
各社のサーボに対応できるインターフェイス。
そして、在庫を持つことによる即納体制。
中国の客は、とにかく「すぐ欲しい」。
現地商社も、注文を受けてから仕入れていては間に合わない。
売れるかどうか分からなくても、先に在庫を抱える。
その商売のやり方が、FLXの販売をさらに押し上げていた。
イズミマチ本社。
営業部。
兵藤課長は、机の前に立つ芝係長と川島を見た。
二人は同期だった。
兵藤が課長。
芝が係長。
立場は違っても、普段の会話は昔と変わらない。
兵藤が言った。
「最近、客先の様子どうだ?」
芝が腕を組む。
「売れてはいるよ」
「でも?」
「なんか変なんだよな」
「何が?」
「設備投資の話になると、妙に慎重なんだ」
川島も頷いた。
「僕も何社かで聞きました」
兵藤は二人を見た。
「じゃあ、今日は売り込まなくていい」
芝が笑う。
「珍しいな」
「客の話を聞いてこい」
「聞く?」
「そうだ」
兵藤は机の資料を指差した。
「数字だけじゃ分からんことがある。何を欲しがってるのか。何を先送りしてるのか。何を心配してるのか」
そして、
「とにかく聞いてこい」
「分かった」
「行ってきます」
芝と川島は営業車に乗り込んだ。
最初の客先では、FLXについて意外な話を聞いた。
「製品そのものは、評判いいですよ」
客が言った。
芝が笑う。
「ありがとうございます」
「ただ、今ある在庫で、しばらく足ります」
「在庫?」
「ええ。商社さんがかなり持ってますから」
芝は一瞬、黙った。
「そんなにですか?」
「中国向けは納期を待ってくれないでしょう。だから、商社も先に仕入れてるんですよ」
「なるほど」
芝は頷いた。
二社目。
設備投資計画について尋ねると、担当者は苦笑した。
「計画はありますよ」
「いつ頃です?」
「それが……もう少し様子を見てから」
「何か問題でも?」
「問題というより、先が読めないんですよ」
芝は黙って聞いた。
三社目では、別の話が出た。
「最近のサーボ、凄いですよ」
担当者が言う。
川島が聞いた。
「そんなに違うんですか?」
「昔とは全然違います」
「エンコーダの分解能も上がってますし、トルクの選択肢も増えた」
担当者は機械を指差した。
「位置決め精度も抜群に良くなってます」
芝が聞く。
「減速機は?」
「減速機なしでいける機械も増えてきましたよ」
芝の表情がわずかに変わった。
「ビルトインですか?」
「そうです」
「例えば、小型の搬送機やピック&プレースのロボットなんかは、サーボモーターをダイレクトに付けて、減速機を省くケースが増えてます」
「トルクに余裕がある機種が出てきたから、間に歯車を噛ませなくても済むようになったんですよ」
芝の表情がわずかに変わった。
「今後、増えそうですか?」
「メーカーも、そっちに力を入れてますからね」
川島は手帳に書き込んだ。
その日の夕方。
二人は営業車で会社へ戻っていた。
川島が運転し、芝は助手席で資料を眺めている。
しばらくして、川島が口を開いた。
「芝さん」
「ん?」
「アメリカのサブプライムローンが、ああだこうだってテレビで言ってましたけど……」
芝が顔を上げる。
「うちと関係あるんすかね?」
芝は少し考えた。
そして、あっさり言った。
「関係ないやろ」
「ですよね」
「アメリカの住宅ローンの話やろ」
芝は窓の外を見る。
「こっちは中国や世界に減速機売っとるんだ。そんな遠い国の話、すぐに関係するわけないやろ」
「ですよね」
川島は前を向いた。
「なんか、ニュースで毎日やってるから気になって」
「まあ、心配しすぎだ」
芝は資料を閉じた。
そして、突然思い出したように言った。
「それより、お前」
「はい?」
「昨日のリレー見たか?」
「北京の?」
「そうだよ」
芝の声が急に熱くなった。
「ジャマイカのウエイン・ボルトンが走り出してな」
「速かったっすね」
「他の国のアンカーも速いなんてもんじゃないだろ」
芝は笑った。
「持ちタイム見たら、笠原なんかやられる場面だろ」
「ですよね」
「ところが、笠原が粘ったんだよ」
芝は拳を握る。
「二位か三位でバトンもらって、あれだけの相手に食らいついて……」
「最後、三位を勝ち取った」
川島が横目で芝を見る。
「感動しましたね」
「ああ」
芝は窓の外を見た。
「俺、号泣したぞ」
「え?」
「号泣だよ」
「マジっすか?」
「笠原、俺と同い年なんだよ」
「ああ……」
「同い年の男が、最後の五輪であんな走りするんだぞ」
芝は鼻をすすった。
「涙無しでは語れんよ。マジで」
川島が笑う。
「芝さん、意外と熱いっすね」
「うるさい」
「でも、昨日泣いてたんすか?」
「だから号泣したって言っとるだろ」
「見たかったなあ」
「見せるか、そんなもん」
二人は笑った。
営業車は、夏の街を走っていった。
その夜もテレビでは北京五輪が放送されていた。
日本中が熱狂していた。
中国もまた、五輪の成功と自国経済の発展に沸いていた。
イズミマチも好調だった。
FLXは売れている。
増産も続いている。
株価も高値で安定している。
誰もが、この好景気がまだ続くと思っていた。
翌日。
営業部に戻った芝と川島は、兵藤へ報告した。
「商社の在庫が増えてる」
芝が言った。
「設備投資を先送りする客も出てる」
川島が続ける。
「それと、サーボがかなり進歩してます」
「減速機なしのビルトインタイプも増えてるそうです」
兵藤は腕を組んだ。
「……そうか」
芝が聞く。
「どう思う?」
「分からん」
兵藤は即答した。
「だから、もう少し聞こう」
「了解」
その頃。
信裕は、FLXの増産計画を確認していた。
営業から上がってきた報告にも目を通す。
だが。
信裕にとって、FLXの商品力への自信は揺らいでいなかった。
標準化。
即納。
中国市場。
三つが揃っている。
中国の設備投資が続く限り、FLXは売れる。
そう考えていた。
そして。
八月二十四日。
北京五輪が閉幕した。
中国の熱狂が一段落した、そのわずか三週間後。
アメリカで、一つの巨大金融機関が破綻する。
そのニュースが世界中を駆け巡る。
だが、この時の芝も。
兵藤も。
川島も。
そしてイズミマチの誰も――
それが自分たちの会社を直撃することになるとは、まだ知らなかった。
「アメリカの住宅ローンの話」。
芝がそう言った言葉は。
やがて、イズミマチの運命を大きく変えることになる。




