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創業者の孫

平成十九年。


春。


クラウザー本社。


専務室。


窪幸一郎は、机の上に広げられた資料を眺めていた。


前年、大連で始まったNappleとの取引は、クラウザーにとって想像以上のものになっていた。


最初の大型受注。


百台を超えるドリリングセンター。


そして、その後も続く追加発注。


NappleのIEphoneが売れるたびに、アルミダイキャストフレームの生産設備が必要になる。


その設備を供給するクラウザーにも、次々と注文が入っていた。


向かいには伊東康則。


その隣には営業第二部長の鈴置が座っている。


窪が資料を閉じた。


「鈴置」


「はい」


「Napple向け、今後の見込みは?」


「かなり大きくなると思います」


鈴置は資料を確認する。


「前年の実績から考えても、今後さらに増える可能性が高いです」


「そうか」


窪は頷いた。


「対Nappleの営業体制を、もう一段強化する必要があるな」


鈴置が顔を上げる。


「はい」


窪は康則を見る。


「そして伊東」


「はい」


「お前にも話がある」


康則が姿勢を正した。


「俺は次の株主総会で、代表取締役になる」


康則が顔を上げる。


「社長に?」


「ああ」


窪は淡々と答えた。


「俺は四十八だ。まだ早いと言う連中もいる」


康則も鈴置も黙って聞いている。


窪は笑った。


「だがな。俺にしてみれば、遅すぎるぐらいだ」


鈴置が思わず苦笑した。


「窪さんらしいですね」


「何がだ?」


「そういうところです」


窪も笑った。


「だが、今回は反対派もそう簡単には文句を言えんだろう」


机の上のNappleの資料を指で叩く。


「前年、Nappleから百台を超えるドリリングセンターを受注した。しかも、一度きりじゃない。これから毎年、何百台になるのか予想がつかないぐらいだ」


窪の声に力が入る。


「結果を出した人間に、いつまでも『まだ早い』とは言わせんよ」


康則は頷いた。


「なるほど」


窪は康則を見た。


「それに、大連で俺はお前の凄さを嫌というほど見せてもらった」


康則が少し驚く。


「俺ですか?」


「ああ」


窪は笑った。


「Nappleの話を持ってきたのもお前だ。呂を見つけて、話を聞いて、俺を大連まで呼び寄せた」


「それだけじゃない」


「豊臣自動車向けの五十台をNappleに回す決断も、お前が持ってきた話がなければ起きていない」


康則は黙って聞いていた。


窪は続けた。


「お前は、自分で何かを仕掛けているというより、気がつくと一番面白い場所にいる」


「それが俺には面白い」


康則が苦笑する。


「褒められてるんですかね、それ」


「もちろんだ」


窪は即答した。


そして、康則を見る目が少し変わった。


――この男は飛車どころの騒ぎじゃない。


優れた経営者の多くは、策略を立てる。


こう動かして、こう利益を出す。


そのために人を動かし、金を動かし、何手も先を読む。


だが、伊東は少し違う。


何も策のないところから、いつの間にか最善の場所へ入り込んでいる。


野生的な勘なのか。


嗅覚なのか。


まるで、成果のある場所を自然に嗅ぎ当てて、そこへ自分を置いてしまう。


そして気がつけば――


俺までその流れに巻き込まれている。


窪自身、そんな感覚を覚えていた。


「そしてな」


窪は康則を見る。


「俺が社長になったら、お前にもクラウザー本社に来てもらう」


康則の表情が変わった。


「クラウザー観光は?」


「後任を立てる」


「お前には、もう観光だけをやってもらうつもりはない」


窪は真っ直ぐ康則を見る。


「本社の常務取締役だ」


康則は黙った。


鈴置も康則を見る。


窪は続けた。


「そして、ベトナムへ行ってもらう」


「中国の次の足場を作る」


「クラウザーは東南アジアへ出る」


康則は、しばらく何も言わなかった。


観光会社の社長を離れる。


後任に渡す。


一瞬、胸の奥に倉田の顔が浮かんだ。


だが、すぐに消ていく。



窪幸一郎。


この男の下で、仕事をしてみたい。


自分がこれまで知らなかった世界を、この男のそばで見てみたい。


そう思った。


そして――


この男が自分を必要としてくれるのなら、応えてみたい。


康則は、そう思い始めていた。


「……分かりました」


康則は口を開いた。


「俺でよければ、やります」


窪が頷く。


「そう言うと思った」


その時、窪がふと思い出したように言った。


「そういえば伊東」


「はい?」


「お前、イズミマチの創業者の孫だったのか?」


康則が少し驚く。


「ああ……そうです」


鈴置が目を丸くする。


「えっ? 伊東さん、イズミマチの創業者の……?」


「孫です」


「そうだったんですか」


窪が笑った。


「俺と同じだな」


康則が窪を見る。


「え?」


「俺もクラウザー創業者の孫だ」


鈴置は二人を見比べた。


「……創業者の孫同士ですか」


「ああ」


窪が笑う。


「おかしな縁だな」


康則も笑った。


「本当ですね」


三人の間に、しばし穏やかな空気が流れた。


窪は再び資料に目を落とす。


「鈴置」


「はい」


「お前には別の仕事だ」


「何でしょう?」


「対Napple営業本部長をやってもらう」


鈴置の目が少し大きくなる。


「本部長……ですか」


「ああ。Napple専任だ」


窪は頷いた。


「もう普通の客じゃない」


「クラウザーの将来を左右する顧客になる」


鈴置はしばらく考えた。


大連で見た工場。


百台を超えるドリリングセンター。


そして、電話の向こうから聞こえてきたスティーブンソン・ジャック本人の声。


あれは夢ではなかった。


目の前に、本当に巨大な市場がある。


「分かりました」


鈴置は頭を下げた。


「やります。責任を持って、Nappleを担当します」


窪は満足そうに頷いた。


「よし。これで決まりだ」


窪は窓の外を見る。


「俺が社長になる」


「伊東が常務になる」


「鈴置はNappleを任せる」


そして、机の上の東南アジアの地図に目を落とした。


「次はベトナムだ」


康則も地図を見る。


「はい」


窪が言った。


「クラウザーの次の十年を作るぞ」


康則は力強く頷いた。


「はい」


鈴置も続いた。


「分かりました」


三人は、それぞれの役割を見据えていた。


この時、彼らの目の前には、まだ見ぬ未来が広がっていた。


Nappleのさらなる成長。


中国市場の拡大。


そして、ベトナム。


クラウザーは、これからさらに大きくなろうとしていた。


一方――


その頃、イズミマチもまた、FLXシリーズの好調に沸いていた。


誰も、まだ気づいていなかった。


この時、クラウザーで始まった一つの決断が、やがてイズミマチの運命を大きく変えることになるとは。

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