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三十五歳

平成十七年。


春。


中国経済の勢いは、留まるところを知らなかった。


三年後に迫った二〇〇八年北京五輪を控え、大連をはじめとする中国各地で、道路、港湾、工場などへの投資が相次いでいた。


新しい工場が建ち、工作機械が入り、製造業が膨らんでいく。


イズミマチも、その波に乗っていた。


特に好調だったのが、FLXシリーズだった。


標準化された減速機本体。


各社のサーボに対応できる共通インターフェイス。


そして、在庫を持つことによる即納体制。


中国では、設備が必要になると、


「すぐ欲しい」


という客が多い。


現地の商社も、注文を受けてから仕入れていたのでは間に合わない。


売れるかどうか分からなくても、ある程度の在庫を抱える。


それほど中国の設備需要は旺盛だった。


イズミマチ本社。


会長室。


会長・伊東征広と社長・北沢が、業績資料を眺めていた。


「FLX、まだ伸びますな」


北沢が言った。


「うん」


征広が資料をめくる。


「中国の設備投資が凄いからな」


「ええ。現地の商社も大変らしいですよ」


「何が?」


「中国のお客さん、とにかく欲しいとなったら、すぐ欲しがるそうです」


征広が頷く。


「納期を待ってくれんのか」


「待ってくれません」


北沢が笑った。


「だから商社も在庫を持っている。売れると分かってから仕入れていたら、間に合わないんでしょうね」


「なるほどな」


征広はFLXの資料を指で叩いた。


「うちが選ばれるのも、そこか」


「はい」


北沢が頷く。


「FLXのように標準化された製品を在庫して、すぐ出せる。中国では、それが強いです」


「欲しい時に、欲しいものがある」


征広が頷く。


「それだけで競争力になります」


「正解だったな」


「ええ」


イズミマチは好調だった。


売上高は伸び続けている。


FLXは増産。


株価も高値で安定している。


そして、業績を反映して株主への配当も実施した。


上場企業として、まさに順風満帆だった。


そんな二人の歓談を、一本の電話が遮った。


「失礼します」


秘書が入ってくる。


「何だ?」


「会長、北沢社長。伊東隆則さんがお見えです」


征広が顔を上げた。


「兄さんが?」


北沢も驚いた。


隆則はすでに経営から引退している。


しかも肝硬変を患い、最近は体調も思わしくない。


征広が言った。


「通してくれ」


「はい」


しばらくして、ドアが開いた。


「よお」


隆則が入ってきた。


征広が立ち上がる。


「兄さん、どうしたんですか?」


「ちょっとな。今日は康則のことで来た」


「座ってください」


「ああ」


隆則はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


北沢も頭を下げる。


「お久しぶりです」


「北沢も元気そうだな」


「おかげさまで」


隆則は二人を見回した。


「会社、調子ええみたいだな」


征広が笑う。


「おかげさんでな。FLXがよう売れてます」


「増産続きです」


北沢が答えた。


隆則は嬉しそうに頷いた。


そして、少し間を置いてから口を開いた。


「康則が、クラウザー本社の社外取締役になった」


征広の顔が止まった。


「……クラウザー?」


「そうだ」


「クラウザー観光に勤めてるんじゃなかったんですか?」


北沢が征広を見る。


「会長、康則さんはクラウザー観光の社長になっています」


征広が北沢を見る。


「え?」


「ご存じなかったんですか?」


征広は首を横に振った。


「知らなかった」


隆則が苦笑する。


「お前、知らんかったんか」


「はい」


隆則は続けた。


「今もクラウザー観光の社長だ。その上で、クラウザー本社の社外取締役になった」


征広は絶句した。


「……三十五歳で?」


「そうだ」


征広は腕を組んだ。


「あの康則君が、クラウザーの取締役か」


隆則が頷く。


「俺もお前も、泉町精工に入る前にクラウザーへ修行に行っとったが……」


征広が静かに聞く。


「取締役って言ったら、雲の上のさらに上の人だったなあ」


「そうですね。話す機会さえありませんでした」


征広は少し考えてから聞いた。


「で、どういうきっかけで?」


「どうやら、窪専務に指名されたらしいぞ」


征広の目が開く。


「窪専務。あの窪専務に見出されたのですか」


「らしい」


征広は小さく息を吐いた。


「康則君、すごいなあ」


北沢は静かに笑った。


征広が聞く。


「北沢、お前はいつ知ったんだ?」


「康則さんとは、もう十年くらい前に大連で会っています」


「十年前?」


「はい」


北沢は当時を思い出すように、少し遠くを見る。


「その時から、半端じゃないなと思っていました」


隆則が黙って聞いている。


「ただ、その頃は役職があったのかなあ……」


北沢が首を傾げる。


「無かったかもしれません」


征広が驚く。


「役職もないのに?」


「ええ」


北沢は笑った。


「自然と、彼のところに人が集まってくるんです」


「中国人も、日本人も関係なく」


「気がつくと、康則さんの周りに人がいる」


「ちょっと前に、クラウザー観光の社長になったって聞いて、びっくりしたんですが……」


北沢は少し笑った。


「やっぱりな、という想いもありました」


征広は腕を組んだまま、北沢を見る。


「人たらしの北沢が言うんだ」


北沢が苦笑する。


「まあ……否定はしませんけど」


征広が笑う。


「そんな北沢が十年前から半端じゃないと思ってたんだ」


そして、隆則を見る。


「本当にすごいんだろうな」


隆則は、しばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言った。


「子供ん頃から、家にぎょうさん友達来よったが……」


征広と北沢が隆則を見る。


隆則は少し笑った。


「康則はな、俺が四十の時に初めて出来た子だったからな」


「まさかなあ」


隆則は遠くを見るように言った。


「こんなことになるとは思わなんだ」


北沢が頷く。


「やっぱり、昔からなんですね」


「ああ」


隆則は懐かしそうに笑う。


「康則がおるところには、いつも誰かおった」


「家の中が、いつも賑やかだったわ」


征広も笑った。


「兄さん、大変だったでしょ」


「そりゃあ大変だった」


隆則は笑う。


「でもな」


少し間を置く。


「嫌じゃなかったんだよ」


「康則が楽しそうだったからな」


部屋に穏やかな空気が流れた。


しばらくして、隆則がゆっくり立ち上がった。


「じゃあ、俺は帰るわ」


征広が心配そうに見る。


「もう帰るんですか?」


「ああ」


「兄さん、体調は大丈夫?」


「大丈夫だ。タクシーで来た」


「無理しないでくださいよ」


隆則は笑った。


「まだ死なん」


「縁起でもないこと言わないでくださいよ」


「ははは」


隆則は手を上げた。


「じゃあな」


「兄さん、気をつけて」


「ああ」


隆則が部屋を出ていく。


扉が閉まった。


征広はしばらく、その扉を見つめていた。


「……康則がクラウザー本社の社外取締役か」


北沢が頷く。


「はい」


「三十五歳でなあ……」


「大連で会った時から、そういうものを感じました」


征広は苦笑した。


「兄さんの息子か」


北沢も笑った。


「これから、もっと大きくなるでしょうね」


二人は再び資料へ目を落とした。


FLXシリーズ。


増産計画。


好調な業績。


高値で安定する株価。


すべてが順調だった。


その時のイズミマチには――


まだ、何の陰りも見えていなかった。

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