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求められる機械

平成十七年。


春。


大連経済技術開発区。


広大な工業地帯を、一台の車が走っていた。


後部座席には、クラウザー本社専務取締役・窪幸一郎。


その隣には、営業第二部部長・鈴置。


運転席には伊東康則が座っている。


二人は窓の外を眺めていた。


しばらくして、鈴置が口を開いた。


「……本当に、百台なんですか?」


康則がルームミラー越しに見る。


「呂さんは、そう言っています」


「百台以上」


「はい」


鈴置は窓の外へ視線を戻した。


「ドリリングセンターを?」


「そうです」


窪は黙っていた。


昨日、康則から送られてきた資料には、Nappleからの発注内容が記されていた。


今年、アルミダイキャストフレーム百万セット。


そのために必要となる加工設備、百台以上。


数字だけを見れば、とてつもない案件だった。


しかし。


窪も鈴置も、まだ完全には信じていなかった。


本当にそれだけの設備を必要とする会社なのか。


そして何より。


納入した設備を、本当に検収して支払える会社なのか。


実際に現地を見てみなければ分からない。


車が大きな交差点を曲がった。


やがて。


康則が前方を指差した。


「あそこです」


窪と鈴置が顔を上げた。


広大な土地が見えてきた。


その先に――


真新しい工場が並んでいる。


三棟。


いずれも大きい。


外壁はまだ新しく、敷地内の舗装も綺麗だった。


車が門をくぐる。


窪が呟いた。


「……随分と広いな」


鈴置も窓の外を見回す。


「工場、三棟ですか?」


「はい」


康則が答える。


「呂さんの会社です」


車はゆっくりと敷地内を進んでいく。


広い。


とにかく広い。


工場と工場の間にも、かなりの空間がある。


康則が説明した。


「土地は全部で一万五千坪だそうです」


「一万五千坪?」


鈴置が聞き返した。


「はい」


「これで?」


「まだ五千坪しか使っていないそうです」


窪は外を見る。


「……五千坪?」


目の前には三棟の巨大な建物がある。


そのうち一棟では、既にアルミダイキャスト製品の加工が行われている。


一方。


残り二棟は――


ほとんど動いていない。


建物こそ立派だが、広大な床面には何もない。


ところどころに資材が置かれているだけだった。


鈴置が呟く。


「……空いてますね」


「はい」


康則が答える。


「二棟は、ほぼ空っぽです」


「これから使う?」


「その予定だそうです」


窪は腕を組んだ。


車が工場の前で停まった。


呂が出迎えていた。


「康則!」


「呂さん」


二人が握手する。


「窪専務、お待ちしていました」


呂が頭を下げる。


「呂さんですね」


「はい」


窪は呂と握手した。


続いて鈴置とも握手する。


「クラウザー本社、営業第二部の鈴置です」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


呂は三人を工場へ案内した。


中に入る。


そこにはアルミダイキャスト製品の加工ラインが並んでいた。


切削されたフレームが次々と運ばれている。


作業員が忙しそうに動いている。


鈴置が足を止めた。


「なるほど……」


窪も周囲を見回す。


「アルミダイキャストの加工か」


「はい」


呂が頷く。


「今はここだけです」


「ここだけ?」


「ええ」


呂は外を指差した。


「残りの二棟は、これから設備を入れます」


鈴置が聞く。


「Nappleのために?」


呂の表情が変わった。


「そうです」


「今年百万セット?」


「はい」


「来年二百五十万」


「その次が六百万台」


鈴置は黙った。


改めて工場内を見渡す。


そして窪を見る。


窪も黙っている。


やがて鈴置が、慎重に口を開いた。


「……呂さん」


「はい」


「一つ、確認しておきたいんですが」


「何でしょう?」


「仮に、百台以上の設備を納めたとして」


鈴置は言葉を選んだ。


「Nappleから、本当に検収されるんでしょうか?」


呂は一瞬、きょとんとした。


そして。


「もちろんです」


鈴置はまだ納得していない。


「いや、Nappleがどういう会社なのかという話ではなくて……」


「これだけの設備です」


「納入して、検収されて、代金が支払われる」


「そこまでの確証がないと、クラウザーとしても簡単には動けません」


窪は黙って鈴置の話を聞いていた。


呂はしばらく鈴置を見つめた。


そして。


「分かりました」


呂は振りかえり、金庫から一枚の封筒を取り出した。


「これを見てください」


中から取り出したのは――


一枚の小切手だった。


鈴置の目が止まる。


「……これは?」


呂は窪の前に差し出した。


「Nappleからです」


窪が受け取る。


小切手には、Napple社の名前。


そして。


桁の大きな金額が記されていた。


窪の目が細くなる。


鈴置も横から覗き込む。


「……前金ですか?」


「はい」


「こんな金額を……?」


「スティーブンソンが出しました」


呂は淡々と言った。


さらに別の封筒を取り出した。


「まだあります」


中から数枚の写真を出す。


写真には、契約の調印式が写っていた。


呂。


そして――


スティーブンソン・ジャック。


二人が並んで契約書に署名している。


さらに。


握手する二人。


記念撮影。


その後ろにはNappleのロゴ。


鈴置の表情が変わった。


「……本人ですか?」


「本人です」


呂は笑った。


「間違いありません」


そして最後に、分厚い書類を取り出した。


「契約証書です」


窪が受け取る。


ページをめくる。


Napple社の社印。


契約条件。


設備投資額。


生産数量。


納期。


そして、署名。


窪は黙って読み進めた。


やがて書類を閉じる。


「……なるほど」


その声には、もう疑いがなかった。


窪は小切手を呂に返した。


「これなら分かりました」


鈴置はまだ写真を見ていた。


それでも、完全には納得していない。


「……しかし」


呂が鈴置を見る。


「まだ何か?」


「いや……」


鈴置は困ったように笑った。


「ここまで揃っていると、逆に一度、Nappleに確認したくなります」


呂は少し笑った。


「それなら、電話しましょう」


「え?」


「Nappleに」


呂は立ち上がった。


工場事務所の電話の前まで歩いていく。


受話器を取る。


番号を押す。


鈴置が窪を見る。


窪も黙って見ている。


呼び出し音が鳴る。


一回。


二回。


三回。


やがて。


「Hello?」


呂の表情が変わった。


「……」


そして。


「スティーブンソン?」


康則が振り向く。


鈴置も目を見開く。


呂は受話器を押さえながら、三人を見る。


「本人だ」


鈴置が固まった。


窪も立ち上がる。


「……本人?」


呂は笑った。


「スティーブンソン・ジャックです」


そう言って、呂は受話器を窪へ差し出した。


「窪さん」


窪は一瞬、躊躇した。


そして。


受話器を受け取った。


「……Hello」


向こうから、英語が返ってくる。


窪の顔が強張る。


もう一度。


「Hello」


短い会話が続く。


窪は必死に聞き取ろうとした。


やがて。


スティーブンソンの声が、受話器から直接聞こえてくる。


「Mr. Kubo?」


窪の手が止まった。


「……Yes」


その瞬間。


窪の手が、わずかに震えた。


隣で鈴置が息を呑む。


康則は黙って二人を見ていた。


窪幸一郎。


これまで幾つもの大口商談をまとめてきた男だった。


だが。


今、受話器の向こうにいるのは――


世界中誰もが知っている、あのスティーブンソン・ジャックだった。


窪は震える手で、受話器を握り直した。


「……Thank you」


スティーブンソンの声が返ってくる。


窪は小さく頷いた。


電話を終える。


ゆっくりと受話器を置いた。


鈴置が聞く。


「……何と?」


窪はしばらく黙っていた。


そして。


「本物だ」


それだけ言った。


呂が笑う。


「でしょう?」


鈴置は、ようやく苦笑した。


窪は工場の外を見た。


広大な敷地。


三棟の工場。


そのうち二棟は、まだ空っぽ。


そこに――


これから百台を超えるクラウザーのドリリングセンターが並ぶ。


窪は静かに言った。


「……これは、やる価値がある」


「鈴置」


「はい」


「今、即納できるドリリングセンターは何台ある?」


鈴置は一瞬考えた。


「……確認します」


すぐに携帯電話を取り出す。


営業部門、工場、物流。


次々と連絡を入れる。


数分後。


鈴置が顔を上げた。


「三十五台です」


「三十五台」


窪は頷いた。


「今週中に船に載せろ」


「……今週中ですか?」


「そうだ」


鈴置が少し驚いた。


「大連までの船積みを考えると、かなり急ですが……」


「だから今週中だ」


「分かりました」


鈴置は頷いた。


だが、すぐに続けた。


「ただ、残りについては……」


「何台だ?」


「百台以上必要ということですから、三十五台を出しても、少なくとも六十五台以上」


「そうだな」


「そちらは、通常の生産計画ですと一か月以上かかります」


窪は黙っていた。


そして。


「一週間後、確か、豊臣自動車に納品予定の機械があるだろう」


鈴置の顔が変わった。


「……はい」


「何台だ?」


「五十台です」


「それを、こちらに回せ」


鈴置は絶句した。


「……こちらに?」


「そうだ」


「Nappleにですか?」


「そうだ」


鈴置はすぐには返事をしなかった。


「しかし……」


「何だ?」


「豊臣自動車との納期があります」


「分かっている」


「もう一週間後に納品することで話がついています」


「それも分かっている」


「先方にご迷惑をかけることになります」


窪は鈴置を見た。


「だから何だ?」


鈴置は言葉に詰まった。


「いや……」


「鈴置」


窪の声が低くなる。


「営業第二部長として、よく考えろ」


「はい」


「その五十台」


窪は指を一本立てた。


「どんな売り方をした?」


鈴置は黙った。


「……豊臣自動車ですから」


「それが?」


「営業が何度も訪問して、何度も頭を下げて」


「それで?」


「他社にしようかと言われて……」


窪は黙って聞いている。


鈴置は続けた。


「かなり値引きもしました」


「そうだな」


「ようやく決まった案件です」


窪は頷いた。


「分かっている」


そして、窪は呂の工場を見渡した。


「じゃあ、こっちは?」


鈴置は黙った。


「Nappleは何と言っている?」


「……一刻も早く設備が欲しい、と」


「そうだ」


窪は鈴置を見る。


「向こうは、こちらが売ってくれと言っているんじゃない」


「必要だから、買いたいと言っている」


鈴置は何も言えなかった。


窪は静かに言った。


「営業がぺこぺこ頭を下げて」


「他社にしようかと脅されて」


「散々値切られて」


「ようやく売った五十台」


そして。


「今、目の前にある五十台は?」


鈴置は答えない。


窪が言った。


「本当に求められている五十台だ」


沈黙。


窪は続けた。


「鈴置」


「はい」


「どちらを売るべきか」


「よく考えろ」


鈴置は俯いた。


しばらくして。


ゆっくり顔を上げる。


「……Nappleです」


窪は頷いた。


「そういうことだ」


鈴置は深く息を吐いた。


「豊臣自動車には……私から説明します」


「相当、怒られると思いますが」


鈴置が苦笑する。


窪は首を横に振った。


「心配するな」


「え?」


「鈴置、俺が行く」


「専務が?」


「ああ」


窪は少し間を置いてから言った。


「社長も連れていく」


鈴置の目が丸くなった。


「社長まで……」


「そうだ」


「俺が社長を連れて、豊臣に謝りに行く」


窪は淡々と言った。


「豊臣の副社長とは、中部産業連盟会で何度も顔を合わせている」


「話はできる」


「俺に任せろ」


鈴置はしばらく窪を見ていた。


そして。


深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


康則が、横から口を開いた。


「……すごい決断ですね」


窪が康則を見る。


「何がだ」


「既存の大事な顧客を動かしてまで、新しい案件を取る。普通は迷います」


窪は短く笑った。


「迷う暇があったら、動け」


康則も笑った。


「勉強になります」


窪は手を上げた。


「鈴置」


「はい」


「豊臣には迷惑をかける」


「それは事実だ」


「だから、きちんと頭を下げる」


窪は鈴置の目を見た。


「だがな」


「はい」


「今、目の前にある商売を逃す理由にはならん」


鈴置は頷いた。


「……分かりました」


「三十五台は今週中に船積み」


「はい」


「豊臣の五十台はNappleへ回す」


「はい」


「残りは一日でも早く作れ」


「分かりました」


窪は工場の外を見た。


広大な敷地。


まだ空いている二棟。


その先には、さらに一万坪の土地が残っている。


「鈴置」


「はい」


「これはIEphone の仕事だ――」


窪は静かに言った。


「百台で終わる話じゃないぞ」


鈴置も工場を見た。


「……はい」


2棟の工場には、まだ何もない。


だが。


その空っぽの床を埋める機械は、もう決まった。


クラウザーが売りたい機械ではない。


Nappleが、今まさに求めている機械だった。

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― 新着の感想 ―
「お願いします」ではなく対等の商売。しかも値引き不要で。 しっかし…えらく剛腕の専務だな。 「今回は貸しにしといてくださいよ」 とか言いそう。
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