大連ふたたび
平成十七年。
春。
大連。
クラウザー観光社長であり、クラウザー本社の社外取締役となった伊東康則は、窪幸一郎の命を受け、大連に二週間滞在していた。
その夜。
仕事を終えた康則は、ホテルへ戻る途中、一軒の酒場に入った。
店内は中国人客で賑わっている。
康則はカウンターに座り、ビールを注文した。
しばらくすると、奥のテーブルから大きな声が聞こえてきた。
「史蒂文森·杰克真的很厉害!」
(スティーブンソン・ジャックは本当に凄いんだ!)
康則の手が止まった。
「また始まったぞ」
友人の一人が笑う。
「お前、Nappleの話になると止まらんな」
男は真剣だった。
「你们根本不懂!」
(お前たちは全然分かってない!)
「ラッキントックの頃から使ってるんだぞ!」
「今はパワーラックG5だ!」
「そしてIEラック!」
男は身振り手振りを交えながら熱弁する。
「ミレニアムに発売されたんだぞ!」
「最高にクールなデザインだ!」
友人たちは笑っている。
「はいはい」
「またNappleか」
「スティーブンソンが凄いのは分かったから」
「分かってない!」
男は真顔で言った。
「スティーブンソンは、ただの金持ちじゃない!」
「考え方が違うんだ!」
その会話を聞いていた康則。
ついに我慢できなくなった。
「……IEラック、俺も好きですよ」
男が振り向いた。
「你也喜欢Napple?」
(あなたもNappleが好きなのか?)
「大好き」
男の顔が一気に明るくなった。
「本当に?」
「本当」
「スティーブンソン・ジャックも?」
「もちろん」
男は康則のところまでやって来た。
「俺、呂明宇」
「伊東康則です」
「何の仕事してる?」
「クラウザー観光です」
「クラウザー?」
「はい。社長やってます」
呂の目が丸くなった。
「社長?」
「若いな!」
「よく言われます」
二人は笑った。
そこから話が弾んだ。
Napple。
スティーブンソン。
IEラック。
パワーラックG5。
IE POD 。
二人とも、まるで少年のように語り合った。
友人たちは完全に呆れている。
「同じ病気の奴が来たな」
「二人で勝手にやってくれ」
呂は笑った。
「いいんだよ!」
「康則は分かってる!」
康則も笑った。
やがて康則が時計を見る。
「そろそろ戻ります」
「もう帰るのか?」
「明日も仕事ですから」
「また会おう」
「もちろん」
二人は握手した。
「次はもっとNappleの話をしよう」
「楽しみにしてます」
康則は店を出た。
一週間後。
同じ酒場。
康則はまた一人で飲んでいた。
すると。
入口から呂が入ってきた。
康則が気づく。
「あれ、呂さん」
呂は康則を見る。
「ああ……康則」
だが。
前回とは明らかに様子が違う。
元気がない。
顔が浮かない。
康則は眉をひそめた。
「どうしたんですか?」
「……何でもない」
「いや、何でもない顔じゃないでしょう」
呂は黙って席についた。
酒を注文する。
しばらくグラスを見つめていた。
康則が隣に座る。
「仕事ですか?」
呂はため息をついた。
「……仕事だ」
「何があったんです?」
呂はしばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「実はな」
「先週、Nappleのスティーブンソン・ジャックが来た」
康則の目が開く。
「えええっ?」
「大連に来たんだ」
「本当に?」
「ああ」
呂は苦笑した。
「俺はもう、舞い上がってしまってな」
「憧れの人だ」
「本人が目の前にいる」
「何を言われても嬉しくてな」
「それで?」
呂はグラスを置いた。
「Nappleから、大きな仕事を受けた」
康則は黙って聞いている。
「三億ドルの設備投資をする」
「俺の会社に設備費を出す」
「その代わり――」
呂は指を一本立てた。
「今年中に、IEphoneのアルミダイキャストフレームを百万台」
康則の表情が変わった。
「百万台……」
「来年は二百五十万台」
「その次は六百万台」
康則は言葉を失った。
呂は頭を抱えた。
「その場では、そんな無茶な数字だと思わなかった」
「嬉しくてな」
「Nappleと直接契約できる」
「スティーブンソン本人からだ」
「だから……」
呂は苦笑した。
「はい、と言ってしまった」
康則は呂の顔を見た。
「それで、設備は?」
「それだ」
呂は深くため息をついた。
「すぐに設備を入れなきゃならない」
「今年百万台を作る」
「そのためには、アルミダイキャスト用のドリリングセンターが必要だ」
「かなりの数が?」
「まず早いうちに百台以上必要だ」
康則が聞く。
「どこかに頼んだんですか?」
「頼んだ」
「タナックに」
康則は頷いた。
「確か日本のメーカーですね」
「ああ」
「それで?」
呂は苦笑した。
「軽く断られた」
「え?」
「実績がない」
「そんな大量の設備を一度に納めるなんて無理だ、と言われた」
「取り合ってもらえなかった」
康則は黙り込んだ。
呂はグラスを見つめる。
「俺はどうしたらいいんだ」
「Nappleには、もう約束した」
「設備を入れなきゃならない」
「時間もない」
「なのに、機械がない」
康則はしばらく考えた。
大連にいた頃、クラウザーの工場や関連設備の話を何度も耳にしていた。
最近、社外取締役としてクラウザー本社の資料を見るようになってからも、工作機械事業の名前は何度か目にしていた。
康則が口を開く。
「……ドリリングセンター」
「はい?」
「アルミダイキャスト用のドリリングセンターですよね?」
「ああ」
康則は腕を組んだ。
「クラウザー本社で、そういう機械を作っているはずです」
呂が顔を上げた。
「クラウザー?」
「ああ」
「本社に聞いてみます」
康則は携帯電話を取り出した。
「え?」
呂が驚く。
「今から?」
「今から」
康則は電話帳を開いた。
表示された名前。
――窪幸一郎。
クラウザー本社専務取締役。
康則は電話をかけた。
「もしもし、窪専務ですか?」
「伊東か。どうした」
「実は、ちょっと大きな話がありまして」
康則は簡潔に説明した。
Napple。
アルミダイキャストフレーム。
今年百万台。
そのためにはドリリングセンターが必要。
「台数は?」
「まずは百台以上、必要だそうです」
電話の向こうが、一瞬沈黙した。
「……百台?」
「はい」
「伊東くん。それ、本当に百台必要なのか?」
「Nappleからの話だそうです」
再び沈黙。
そして窪の声が低くなった。
「……分かった」
「明日、詳細を送れ」
「分かりました」
電話が切れた。
康則は携帯電話を置いた。
呂が、おそるおそる口を開く。
「……どうだった?」
康則は少し笑った。
「とりあえず、興味は持ったみたいです」
呂は、まだ不安そうだった。
だが。
ほんの少しだけ、表情が和らいだ。
酒場の照明が、二人の顔を照らしていた。
その二日後。
窪幸一郎は、工作機械担当の営業部長を連れて、大連に降り立つ。
巨大な案件の、その入口に立つために。




