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飛車?

平成十七年。


春。


クラウザー本社。


専務取締役・窪幸一郎は、役員会議室の窓から外を眺めていた。


まだ四十代。


鋭い目をした男だった。


クラウザーグループは大きくなった。


本社。


精密。


不動産。


観光。


アメリカ。


大連。


グループ全体で数万人。


しかし。


窪の目には、まだ足りないものがあった。


「……駒が足りんな。」


誰に聞かせるでもなく呟く。


窪には、野望があった。


このクラウザーを、もっと大きくする。


国内だけではない。


アジアへ。


世界へ。


そのためには、自分一人の力では足りない。


優秀な人間が必要だった。


窪は将棋が好きだった。


経営も、将棋と似ていると思っていた。


役員たちは悪くない。


仕事もできる。


忠実でもある。


だが――。


「金や銀じゃな。」


窪は小さく笑った。


「いや。」


「銀くらいか。」


王の周りを守る。


言われたことを確実にこなす。


それも必要な駒だ。


しかし。


窪が欲しいのは、そんな駒ではなかった。


飛車。


角行。


自分で考え、自分で動き、相手陣へ切り込んでいく。


敵陣に入れば――。


飛車は龍になり。


角は馬になる。


守るだけではない。


攻め続ける。


局面そのものを変えてしまう。


「そんな奴がおらんかな。」


窪はそう思っていた。


今いる役員の中から探しても、おそらく難しい。


優秀ではある。


しかし。


王を守ることには長けていても。


自ら敵陣へ飛び込んでいく人間は少ない。


「グループの中に、誰かおらんか。」


そう考え始めていた。


そんなある日だった。


歯医者の待合室。


窪は診察を待ちながら、何気なく雑誌を手に取った。


旅行雑誌だった。


ページをめくる。


観光地。


ホテル。


海外ツアー。


そして。


ある記事で手が止まった。


「……ん?」


写真が載っている。


若い男。


その下に、名前。


株式会社クラウザー観光

代表取締役社長 伊東康則


窪は眉を上げた。


「伊東……康則?」


聞いたことがある。


確か。


まだ三十そこそこだったはずだ。


クラウザー観光の社長になった若い男。


グループ内でも噂にはなっていた。


「売上を十倍にした男。」


そんな話を聞いたことがある。


いや。


最近聞いた話では――。


「二十倍……?」


窪は記事を読み始めた。


最初は半信半疑だった。


旅行会社。


観光会社。


ヒットツアーをいくつか当てた。


そういうことだろう。


窪自身も、最初はそう思っていた。


――旅行馬鹿が、たまたま当てた。


それくらいにしか考えていなかった。


しかし。


記事を読み進めるにつれ。


窪の表情が変わっていった。


単に人気商品を作ったわけではない。


市場の分析。


顧客層の変化。


旅行需要の予測。


商品開発。


販売方法。


海外市場。


人員配置。


一つ一つに理由がある。


しかも。


一発屋ではない。


毎年、売上を伸ばしている。


それも大幅に。


窪は雑誌を閉じなかった。


何度も読み返す。


「……なるほどな。」


小さく呟く。


「ただの旅行馬鹿じゃない。」


記事の最後には、康則の言葉が載っていた。


「旅行は、商品を売るんじゃない。」


「お客様が、その先で何をしたいのかを考えることです。」


窪は、その一文をじっと見つめた。


「……おもしろい。」


歯科助手が声を掛ける。


「窪様、どうぞ。」


「ああ。」


窪は雑誌を置いた。


しかし。


立ち上がる前に、もう一度写真を見る。


若い社長。


伊東康則。


「ひょっとしたら……。」


窪の口元がわずかに上がった。


「こいつなら。」



翌週。


クラウザー本社。


窪は資料を取り寄せていた。


伊東康則。


平成八年。


従業員百六人だったクラウザー観光へ戻る。


そこから四年。


売上は十倍。


その後も成長を続ける。


平成十二年。


三十歳で企画開発部長。


平成十五年。


三十三歳で社長。


従業員四百五十人。


平成十七年。


六百人。


窪は資料を机に置いた。


「三十五歳か。」


若い。


それでも。


数字は嘘をつかない。


「こいつを、一度見てみたいな。」



数日後。


クラウザー観光。


社長室。


「え?」


康則は、電話の向こうの名前を聞き返した。


「クラウザー本社の窪専務?」


「はい。」


「俺に?」


「はい。」


康則は首を傾げた。


「何の話やろ。」




本社。


窪の執務室。


康則が入ってくる。


「失礼します。」


「伊東君。」


窪は立ち上がった。


二人が向かい合う。


窪は康則をじっと見る。


若い。


思っていたより普通の男だった。


だが。


目が違う。


康則も窪を見る。


噂には聞いていた。


クラウザー本社の切れ者。


クラウザー創業者の孫。


上昇志向が強く、将来はクラウザーを背負う男だと。


窪が口を開いた。


「伊東君。」


「はい。」


「君、クラウザー本社の社外取締役をやらないか?」


康則は一瞬、固まった。


「……俺がですか?」


「そうだ。」


「いや……。」


康則は頭を掻いた。


「俺、観光会社の社長ですよ。」


「知っている。」


「本社のことなんか、よう分からんですよ。」


窪は笑った。


「だからいい。」


「え?」


「観光会社の社長だからこそ、君に来てもらいたい。」


康則は黙った。


少し考える。


「……正直、荷が重いです。」


「分かっている。」


「俺、まだ観光の仕事がしたいんで。」


「それは続けていい。」


「会議ばっかりになるのも、正直苦手で。」


窪は面白そうに康則を見た。


「それでも、一度やってみないか。」


「クラウザー全体を、外から見る。」


「今の君には、それが必要だと思う。」


康則はしばらく黙っていた。


窓の外を見る。


海外にはまだまだ行きたい。


人がいて、飯があって、話が弾む地へ。


「……分かりました。」


少し間を置いて、続ける。


「やります。」


「ただし。」


康則が顔を上げる。


「観光の社長は続けますよ。」


「もちろんだ。」


「俺、まだ観光やりたいんで。」


「それでいい。」


窪は椅子に座り直した。


そして、少し間を置いて言った。


「伊東君。」


「はい。」


「社外取締役になったからといって、本社の会議に座っているだけでは意味がない。」


「……はい。」


「まず、クラウザー大連へ行ってこい。」


康則の顔が少し明るくなった。


「大連ですか?」


「そうだ。二週間。」


康則は笑った。


「大連なら、知ってますよ。」


窪が少し意外そうな顔をする。


「そうなのか?」


「昔、クラウザー観光の大連支店にいたことがありますから。」


「へえ。」


「蔵宇座有限公司の日本からの出張者とか、中国人社員の日本本社行きとか、あの辺の手配をやってました。」


「なるほど。」


康則は懐かしそうに笑った。


「俺、大連大好きなんですよ。」


「それなら話が早い。」


窪も笑った。


「二週間でいい。」


「クラウザー大連を、自分の目で見てこい。」


「工場も、人も、現地の経営者も。」


「社外取締役としてな。」


康則は即答した。


「分かりました。」


そして、もう一度笑う。


「大連なら、喜んで行きます。」


窪は頷いた。


「そうか。」


康則は立ち上がった。


「いつから行けばいいです?」


「準備ができ次第だ。」


「じゃあ、早い方がいいですね。」


窪は、その背中を見送った。


――やはり、面白い男だ。


誘えば嫌がるどころか、行き先を聞いた瞬間に目を輝かせる。


窪はまだ知らない。


この時、自分が「飛車かもしれない」と見込んだ男が。


大連で、本当にクラウザーの未来を動かすことになるとは。


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